読書記録 2003年

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発行日 読了日 イントロ メモ・登場人物
107 磐舟の光芒 下 黒岩重吾 講談社 1993.5.18 2003.12.23 十四
日羅が難波津に着いたのは十月下旬だった。百済王は日羅以外に、正使として恩卒(おんそら)(第三位)の徳利、副使の弥多牟など総勢二十名を超える使節団を寄越した。日羅に仕える部下も数名いる。使節団には百済王の意を受け、日羅を監視する者も多い筈だ。児島の屯倉(みやけ)に日羅一行を迎え、宴を張った大伴の糖手子(あらてこ)なども、日羅は孤立しているようだ、物部守屋に報告した。日羅は百済では二位の高官で大臣(おおおみ)級である。その日羅が百済の秘密を暴露しかねないのだ。百済王としては日羅の口を封じたい。日羅に圧力をかけ監視する役人を同行させるのは当然のことである。
最後は物部大連が負ける。聖徳太子も蘇我の馬子の側として参加している状況も描かれている。この時代は朝鮮の影響がかなりの割合で政治にかかわっていたことや、仏教の日本への広まり方のほんの開明期の時代として興味深い
106 華屋与兵衛 謎の生涯 馬場啓一 夏目書房 2003.2.25 2003.12.21 其の一 深川平清
しのつく雨が少し小降りになったと見るや、土手を南に走り出した人影があった。笠も蓑もミにつけず、濡れるもかまわず走っている。目指すは深川土橋のたもとにある料理茶屋らしい。先にはそれしかなかったからだ。走っているのは、まだ十歳をいくつも出ていないと見える小僧であった。垢だらけで髪は伸びるに任せて顔を隠し、目まで届いている。身なりは汚く、着古した単衣(ひとえ)の八丈に、煮しめたような刺し子の半纏を羽織っていた。
今の料理チェーン店につながっている「華屋与兵衛」を作った人物が主人公と思われる。乞食から身を起こし現在の寿司の原型を作った人として書かれている。
105 大黒屋光太夫
上巻
吉村昭 毎日新聞社 2003.2.15 2003.12.5 白子浦
羽織、袴をつけた光太夫は、伊勢国白子浦(現三重県鈴鹿市白子町)の砂浜に立って海に眼をむけていた。砂浜は北にむかって長くのび、松の林が砂浜とともに遠くつづいている。文字通りの白砂青松で、これほど美しい海浜を他の地で眼にしたことはなく、この地を故郷としているのを誇りに思っている。白子浦は、堀切川の河口にある港で、海との間に細長い砂州があって入江を形作っている。当然のことながら水深は浅く、廻船は、入江に入ることはできず、砂州の外の海に停泊しなければならない。海の機能としては好ましくないが、それにもかかわらず海には多くの廻船が碇をおろしいて、その中には光太夫が沖船頭をつとめる一見諫右衛門の持船である千石積みの「神昌丸」もうかんでいる。
1700年代後半の廻船の沖船頭であった光太夫という人物の漂流記。遭難のあと、ベーリング海峡の小島(アムチトカ)に流れ着き、それからロシア内の流浪がつづき、イルクーツクにつくまでがこの上巻、厳寒のシベリア大陸を横断している記述はすさまじい迫力

キャッチフレーズ
吉村歴史文学、不滅の金字塔。著者渾身の漂流記小説の集大成
104 ちいろば先生物語 三浦綾子 朝日新聞社 1987.5.28
1991.11.15 第9刷
2003.12.2 序章
「ちいろば先生」の名を、その時、私はまだ知らなかった。その時というおは、昭和ヨ運十四年(1969年)の正月の頃をさす。その頃私は、体調を崩していた。どうやら子宮癌らしいと言うので、札幌の癌センターに出かけて行った。三浦も心配して同行してくれた。婦人科の待合室には、女性たちがあふれていた。見るからに疲れきった中年の婦人や、病人とも見えない若い女性たちが、一様に不安な表情を見せて黙りこくっていた。そんな女性ばかりのいる待合室に、長時間一人で待っているのは、気恥ずかしくはないかと、診察室に入る前に、私は三浦に訪ねた。
キリスト教の今日の伝道の偉人と言う人の物語。話としては面白いが宗教の匂いが強すぎて人に勧めるのには少し無理がある。
ちいろばとは、小さなロバという意味で、キリストの敬虔な使途であることをあらわしているという。
103 磐舟の光芒 上 黒岩重吾 講談社 1993.5.18 2003.11.25 敏達(びだつ)大王の皇后(正妃)広姫が風邪をこじらせ、病床に伏すようになったのは、敏達四年(575)の旧暦十月だった。倭国一の軍事氏族の長、大連物部守屋は警護隊長の捕鳥部万以下、数人の部下に守られ百済宮(奈良県北葛城郡広陵町)に向かっていた。二上(にじょう)山系を始め丘陵地帯は、紅葉を終えようとしていた。ただ黄ばんだ樹葉の中に、まだ燃えるような葉が残っている。木枯らしの来襲を伝えるような北風が、思い出したように薄の穂をなびかせながら去っていく。その度に、寒気で頬が叩かれるようだ。ただ北風が過ぎ去ると晩秋の陽射しが僅かだが身体を暖めてくれる。 物部大連と馬子大臣の一族同士の対決を扱った作品、主人公の守屋は物部の首魁。馬子側が百済より多くの百済人を移住させ勢力拡大をはかる。この野望をつぶすべきうごく守屋の戦い。
102 蕎麦と江戸文化 笠井俊彌 雄山閣出版 1998.6.20 2003.11.22 プロローグ
江戸文化のキーワードの一つは、粋(意気)、粋は「遊び - 遊び心」に咲いた洒落た花とも言えます。ひとびとは、豊かな遊び心に生きました。粋はまた、趣向を解するゆとり心でもありました。「趣向(いき)といふ事は、俗にええおもいつきといふ義也」
(安永八年「大通法語」可吝) 趣向はあからさまでない、一ひねりも二ひねりもしたちょっと気の利いた遊び感覚です。日常の言葉についても、趣向センス、遊び感覚も粋の大切な部分でした。言葉のなかで、「数」のパズル趣向・遊び感覚は、江戸時代、大いに華やかで盛んでした。
副題 二八蕎麦の謎 とあり二八蕎麦だけで一冊の本を構成した著者の慧眼に恐れ入る心境の本であった。 ところで二八の由来は著者は江戸の数字の省略文化の影響で二杯で十八文を縮めて二八としたとしている。この傍証にかなりの江戸時代の小説を調べ上げている点に舌を巻いた。
101 小説 カミさんの悪口 村松友 日本経済新聞社 1991.8.20 2003.11.10 日向にうずくまっていた猫のアブサンが、伸びと欠伸を一緒にして、ゆっくりと窓ぎわから離れた。(水か・・・・) 眠って起きたあとの、アブサンの一連の行動を、私は頭の中に思い浮かべた。伸びと欠伸の次に、アブサンは浴室へ向かうつもりにちがいない。浴室には、アブサンが飲むための水をためた洗面器が置いてある。昼寝のあと、アブサンはたいがいそこで水を飲むのだった。アブサンは浴室へ入る戸のすき間から、体を中へすべり込ませようとして、ふと何かを考えたように、そこで立ち停ってうごかなくなった。そして、ゆっくりとふり返り、じっと私の目を見つめた。 村松友は初めて読んだが肩が凝らず気楽に読める。気分転換にはいいかな

キャッチフレーズ
締め切りが苦にならず資料も取材も必要とせず、モデルはつねに身近かにいて、刻一刻ネタを提供してくれる・・・こんな無いものねだりの作品がある日突然頭に浮かんだ。それこそがカミさんの悪口という必殺のテーマだった。汗と努力が作品を生み出すと信じておられる読者の皆さまには、まことに申し訳ないと自覚しつつ、スイスイと書き切ったのがこの小説であります。
100 流星ワゴン 重松清 講談社 2002.2.8 2003.11.7 間抜けで哀れな父親がいた。五年前の話だ。新聞の社会面に小さな記事が載っていた。見出しは<初めての家族ドライブ暗転> - 信州の高原をドライブしていた三人家族の車がスピードを出しすぎてカーブを曲がりきれず、対向車線にはみ出してトラックと正面衝突した。母親は一命をとりとめたものの、父親と息子は即死。運転していた父親は一週間前に免許を取ったばかりで、マイカーが納車された翌日の事故だったといる。ふだんの朝なら読んですぐに忘れるはずのささやかな悲劇が、妙に胸に残った。最初は「なんだよ、この親父」と声をあげて笑い、新聞を閉じてから少し悲しくなった。事故に遭った一家の家族構成と年齢は、我が家とそっくり同じだった。ぼくは三十三歳だった。妻の美代子も同い歳。一人息子の広樹は八歳、小学二年生。我が家の黄金時代だった - いまにして思う。僕自身の人生の、あの頃がピークだったのかもしれない、とも 1年前の過去に連れてってくれるという"オデッセイ"という車に乗り込んだ主人公 は現在の破綻した状況が出来上がった重要な一日に立ちあうが ・・・ 相変わらずの暗い内容だが筋の展開は面白く先へ先へと読みたくなる"重松清”ものである。

キャッチフレーズ
37歳・秋 [i死んでもいい」と思っていた。ある夜、不思議なワゴンに乗ったそして-自分と同い歳の父と出逢った。 ぼくらは友達になれるだろうか?
99 日光 松山巌 朝日新聞社 1999.7.1 2003.11.6 色は匂えど散りぬるを
十一月中旬、土曜日、前日まで穏やかな秋日和に恵まれていた日本列島は、覆っていた移動性高気圧が地球の自転に応じて、その中心を日本海から三陸沖、さらに東の太平洋上に移し、続いて中国大陸から大きく高気圧が張り出して来たため、南北に長く走る気圧の谷間にすっぽりと収まった。一方、上海付近に発生した低気圧は、朝鮮半島に中心を移すと急激に発達し、やがて日本列島上空に位置する気圧の谷間に割り込むような格好で北東に進むコース、すなわち日本列島を縦断するコースを採り、南から日本各地に雷を伴った激しい雨と南から吹く強風をもたらした。
あまり面白くなかったため、読みはじめから2週間を費やしてしまった。それでも後半から筋の展開に興味を持ち始めたが。この本左に書いてあるイントロとエンディングにまったく同じ文章を用いている。いままで初めてである。内容も荒唐無稽で???が多く続く

キャッチフレーズ
前代未聞の長編小説!
荒唐無稽にしてどこまでも深くドタバタ喜劇が一転、悠久の無限へといたる --------日光に限りなく近い場所で振り広げられる、日光から最も遠い物語
98 トワイライト 重松清 文芸春秋 2002.12.15 2003.10.21 第一章 金曜日の午後
帰郷というほど大袈裟なものではなかった。新宿から私鉄の快速に乗って三十分余り。簡単に日帰りで訪ねることができる。実家が引っ越しをしていなければ、いまも年に何度かはあの街に足を運んでいたはずだ。[ぼくは初めてなんだよね? 赤ん坊の頃とか行ったことある?」ロングシートの隣に座った息子の由輝に訊かれ、高橋克也は「あるわけないさ」と苦笑交じりに答えた。[おじいちゃんが団地から引っ越しちゃったのは、パパが高校に入るときだったから」 「それから一度も来てないの? 懐かしいとか帰ってみたいとか思わなかった?」「べつに思わなかったなあ。そういう感じの街じゃないんだよな、あそこは」
ネットで調べたらトワイライトとは“夕暮れ”という意味と“日の出前”という意味わかった。

前半は暗い話題のオンパレード。テーマは夫婦の破局、落ち目の塾の講師、リストラと読むのにへきへきしながらの読書であった。ドラえもんのキャラクタのジャイアン、のびた、静香ちゃんがそれぞれ主要な登場人物となっている。

ともかく、タイトルの「トワイライト」を用いたことは人生のこれからも過去もいまも「夜明け前」であり「夕暮れ時」のようにはっきりしない明るさということを言いたかったのだろうか
97 ひとりで暮らす
いきいきと老いる
十返千鶴子 海竜社 1998.10.22 2003.10.18 はじめに
ポッティチェリの名画「ヴィーナスの誕生」の、貝に乗って海辺に立つ女神の美しい裸身像は有名である。そして女神の頭上には、天使たちが頬をふくらませて西風を送り、それによってヴィーナスは生をうける、という伝説もまたよく知られている。でも、なぜ西風なのかというと、私にはよく分からない。けれどもあるときふと思った。天使たちがヴィーナスに送り込んでいる西風というのはいのちのことではないかと。そうだ、ヴィーナスは天使たちからいのちを吹き込まれたのだ。それまではヴィーナスも美しい形をした、ただの貝殻だったのではないかしら。そんなことを考えて以来、私は「いのち吹き込む」という、それだけの言葉が、まるで時の一節のように、私の頭のまわりをたえず飛びかっているように感じられてならなかった。
題名から察すると、かなり悲観的な内容かなと思ったがかなりの部分は老後の楽しさを述べているもので安心して読めた。著者はドイツ、特にフランケンシュタインに大変興味がありそうでこの辺のエピソードが面白く述べられている。
96 回天の奇襲 高杉晋作 霜月一生 叢文社 1992.10.5 2003.10.13 嵐の初声
天保十年(1839)八月二十日、夏の台風が前触れもなく、突如、毛利藩三十六万九千石の萩城を襲った。指月山の上空を、黒雲が矢の如く日本海へ疾る。城下町に渦巻く風雨が、閉ざした家々の門戸を容赦なく打ちゃくする。毛利藩士高杉小忠太の屋敷が、菊屋横丁の中ほどにある。強風に煽られる雨戸が、ガタガタと悲鳴を上げている。それはあたかも、救けを求めるというより何かを催促しているようなかしましい音であった。高杉家屋敷内は、先刻より遽しく人が行き交い、なんとなく落ち着かない雰囲気である。それもその筈、奥座敷では小忠太の妻、道の初産が始まろうとしていたからだ。父親になる瞬間を迎える小忠太にしてみれば、神仏の加護に縋って妻の無事出産を祈らずにおれなかった。
高杉晋作は明治維新回天の5人に入ると著者は述べているが、他の4人とは坂本竜馬、西郷隆盛、大久保利通、桂小五郎であろうか。
にしても初めて高杉晋作の伝記を読んだ。ただ本そのものは有名作家、司馬遼太郎や吉村昭に比べると味わいがない。

章立て
熱血編 一,嵐の産声 二.蘇る魂 三.夢は剣士 四.松蔭との出会い 五.二者択一 六.旅立ち 七.嗚呼、至誠還らじ 八.風雲江戸城 九.赤い雲 十.支那の形勢 十一 異人襲撃 十二.定広の温情 十三.剃髪東行
躍動編 一.奇兵隊 二.犬猿の始末 三.穏忍の日々 四.血雨降る京都 五.偽家老の勇断 六.恩慕の情け 七.風の如し 八.雨の如し 九.第二の友 十.生きねばならぬ 十一.来るなら来い 十二.勝利への奇襲 十三.炎の燃え尽きるまで あとがき
95 四十回のまばたき 重松清 角川書店 1993.11.30 2003.10.7 耀子は、一九八〇年代の冬は知らない。最後の冬の記憶は、一九八〇年十二月八日のジョン・レノンの暗殺だった。もっとも、耀子はビートルズに思い入れを抱く世代ではない。一九六九年に生まれ、レノン&マッカトーニよりもショパンを好み、だからいまは彼女は二十四歳で、陽あたりのいい彼女の部屋には古びたアップライトのピアノが置いてある。「ジョン・レノンって人が殺されたニュースをテレビでやってたのは、憶えてるのよ。ファンの女の子たちが事件の現場にロウソクを持って集まって、なんとかっていうバラードを合唱してて、けっこういい曲だなあって思ってるうちに記憶がなくなったの」 題名の「四十回のまばたき」とはアメリカの口語英語で、うたた寝の意味だと作中にあった。40 winks・・・ なかなか味なタイトルである。
うたた寝をすれば目覚めたときは、いやなことは多少なりとも薄れてくる。一晩寝ればパーフェクトといっている。まあパーフェクトは無理だが寝て起きれば別の見方も生じてくる・・・ 思いつめない、あせらずにということか
94 モナの瞳 藤原智美 講談社 2003.7.1 2003.10.4 第一章 キャンプ
1. マッラの大通りに出て、通りかかった小型バスをとめた。まだ午前九時だというのに、ドアの取っ手は火傷しそうなほど熱く、走り出すバスの窓からはヘヤドライヤーなみの熱風が容赦なくふきつけてきた。日本では歯医者まちがいなしの中型ワゴン車で、からだを左右にゆらしながら、あえぐように進んでいく。助手席の男の子が車掌代わりに、路上に向かって大声で怒鳴りつけるように客を誘っていた。目的地はクレイターだとそれでわかった。
我慢して全部読みきった。なんとも退屈の本である。何を言いたいのか、書きたいのか少しも理解できない。
93 小さき者へ 重松清 毎日新聞社 2002.10.20 2003.9.28 海まで
空港を出るときに「しゅっぱーつ、しんこー!」と元気よく声をあげたミツルは、車が山あいのインターチェンジから高速道路に入ると、こてん、と音が聞こえそうなほどあっけなく眠ってしまった。隣に座った真理が顔を覗き込み、頬を軽くつついたが、目を覚ます気配はない。午前中にふるさとに着く飛行機に乗るために、七時前に東京の家を出た。飛行機の中で寝るだろうと思っていたが、一時間ちょっとのフライトだ、窓に貼りついて景色を見ているうちに着いてしまった。「単純なんだから、ほんと」
今回も重松の本はよかったといわせる内容であった。短編集、左記他、「フイッチのイッチ」、「小さき者へ」、「団旗はためく下に」、「青あざのトナカイ」、「三月行進曲」
「フイッチのイッチ」は同じ離婚の両親を持つ小学生が主人公、「小さき者へ」は不登校、家庭内暴力の息子を持つか弱い父親がビートルズの思い出とともに描く、「団旗はためく下に」は応援団長の父親を持つ女子高生が中退を決意していく様子。ラストの父親が団旗を持ってエールを送る場面はテレビ向けだなーと思った。「青あざのトナカイ」は脱サラしてピザ屋を開いたがあえなく倒産、失意の心境を描く。「三月行進曲」は小学生の野球少年団の監督になった主人公がそれぞれの失意の三人の小学生を春の選抜大会の入場式に行こうと呼びかけた物語

キャッチフレーズ
勇気のスイッチが欲しくな
るとき。子を、親を─人生を抱きしめた、深い共感を心に刻む 六つの
物語。. ...
92 東征伝 黒岩重吾 角川書店 1996.5.30 2003.9.27 凱旋
九州南部の熊襲を征伐したヤマトタケル(倭建)の一行は、帰途、吉備国(岡山県)に寄った。ヤマトタケルはオオタラシヒコオシロワケ王(景行帝)と播磨の印南(稲日)大郎姫の王子である。タケルは播磨の印南の山野で育ったが、古代の吉備の勢力は印南にまで及んでいた。タケルの母は印南の首長の娘だが、吉備の血が入っている。当然、タケルにも吉備国の血が流れていた。タケルは吉備国の島々を眺めたとき、懐かしさに似たものを感じたが、それは血のせいかもしれなかった。
現在の草薙の地名となったヤマトタケルの逸話はこの本で読む限り焼津の地名となっていた。父帝より死んでも構わないとのことで東征の旅に出発させられたタケル・・・。この物語は焼津の地を平定しているところで終っている。この後どうなったか興味深い

キャッチフレーズ
運命を享受し勇猛に生きる伝説を超えた真の英雄増。波乱と激動に古代大和国。東国平定のため出征をする若き王子。父帝との確執、魔性の女人との出逢い・・・。数奇な運命を辿る、日本最古の英雄を雄渾な筆致で活写する、最新古代史巨編!. ...
91 夜の哀しみ 上 三浦哲郎 新潮社 1993.2.20 2003.9.21 満ちてくるもの
登世は、また寝返りを打った。洗いざらしは、元の色がわからなくなったネルの寝巻のすそがはだけて、うすやみのなかに、片方の脚が腿の付け根のあたりからほの白くむき出しになった。眠りこけているわけでもないのに、寝返りを打つたびに寝姿がしどけなくなる。けれども、登世は投げやりな気持ちで、夜具や身につけているものの乱れを直そうともしない。
題材は田舎の妻の不倫の物語。ただ都会ものと違って、背景はどんよりと暗い。読後感はあまりよくない。
90 ふたり道三 3 宮本昌孝 新潮社 2003,1.20 2003.9.19 第二十三章
夕暮れ近く、謀叛軍の武芸谷城包囲陣がほぼ整った。野営の本陣では、持是印妙全がき下に指示をあたえている。老くが十歳、いや二十歳も若返ったような溌剌たるようすは、謀叛軍総大将の座を愉しんでいるかのようではないか。「又四郎。西濃のようすは」もともとの首謀者である又四郎に、妙全は尋ねた。「昨日、牧田で激戦をきわめたことで、本日は敵味方とも睨み合いをつづけているよし、浅井の先鋒が大垣あたりまで進み、利茂らは揖斐川を背に布陣したそうにござる」「後退したとはいえ、利茂が踏みとどまっていることじゃな」「日根野、鷲見(すみ)の援軍を得たからにござる」「それこそ、いまは好都合じゃ。なれど、浅井勢が揖斐川を突破すれば、あとは一挙に福光まで達しよう。それまでに、何としても頼芸(よりあき)さまの御身柄を取り戻しておかねばなるまい」「御意」
完結編、筋立てに無茶が目立った。決してつかまらないはずの忍者の首領(猫)が簡単に捕まったり、それを助け出すため最古参の仲間にも相談せず、また相手忍者の言いなりになり暗殺をする等・・・。美濃の城主となったあと若き日の織田信長との短いやり取りがあり、この後の新作に彼を登場させるつもりか。

キャッチフレーズ
新九郎は、櫂扇の太刀を振り上げた。刹那、なんという不可思議であろう、黒雲から稲妻が迸り出て、その刀身が吸い込まれた。新九郎の総身は発光する。匂玉互の目が、音をたてて散った。 秘剣・櫂扇の因縁に導かれ、天下物取りを目指した稀代の武将の物語が迎える感動の大円団。
かくて美濃の王は誕生した。父と子が袂を分かつときは刻一刻と近づき・・・大長編が迎える感動の大円団
89 ふたり道三 3 宮本昌孝 新潮社 2003,1.20 2003.9.16 第十八章 紅の墓
うっすらと色づきはじめた木々の梢で、鳥が囀っている。北に伊吹山地の巨魁が盛り上がり、南には鈴鹿山脈が望まれる。東西に細長いこの谷道は、中山道の今須あたり、(寝物語の里)という風流な別名をもつ土地である。谷道に雷鳴に似た音が響き渡っていた。牛に牽かせた荷車の車輪が、地を噛む音である。一列縦隊となって十代。その荷車隊の前を駄馬十頭が先行する。人間は、七十名余り、武士と見受けられる者は少なくないが、それでも全員が武装しているのは、もとより自衛のためである。
下のキャッチフレーズはちとオーバーであるが、面白いには面白い。ただ斉藤家の複雑な家系の入り乱れのところはよくわからん。(筋だけを追っているせいであるが)

キャッチフレーズ
浅井克政の美濃出兵に端を発した争いは、それぞれに思惑を秘めた諸勢力を巻き込んで大永の動乱へと発展した。新左衛門尉と新九郎は闇の住人を操り、知略の限りを尽くしてこの争いを勝ち抜いていく・・・・。策略と陰謀のドラマをダイナミックに描いた超話題作。
88 もどろき 黒川創 新潮社 2001.2.25 2003.9.15 1
偏愛の対象というのは人そろぞれだろうけれど、祖父にとっては、自転車がそれだった。もちろん彼は、妻より自転車を愛していた。祖父は米屋だった。自転車は、だから、毎日の配達につかう商売道具である。ふだんの生活の足でもある。大腿筋の衰えを防ぎつつ、交通費の出費を抑制する装置でもあった。
第124回の芥川賞候補作ということで読んだが、??? であった。祖父、父、母をとくに父について書いてある。題名の「もどろき」とは京都にある還来神社からきている。遠く桓武天皇の皇紀であった藤原旅子を祭ってある神社とのことである。

キャッチフレーズ
祖父の営んでいた京の米屋の店先で、みずから命を絶った父-。「もどろき」さん、京都と滋賀県境の還来神社をめぐって、祖父・父・私、三代の記憶と現在が交錯する。さまざまな時代を生きた人々の、語られなかった言葉、「デッド・レター」の行方は?
87 ふたり道三 二 宮本昌孝 新潮社 2002.12.20 2003.9.10 第九章 愛憎往来
あえかというか疎(おろ)かな微光の漏れ入る薄闇の中、異様にぎらつく双つの眸子(ぼうし)がある。野獣か。そうではない。人だ。土壁に背を凭れさせる。両足を投げ出している。足音が近づく。馬の鼻が鳴った。ここは坂本城内の厩に近い土牢である。牢というより、穴と表現したほうがよかろう。地面をほぼ一間半四方、深さ四尺ばかりの急造のものにすぎぬ。後世の専用の牢舎と違って、当時の牢は崖や洞穴、あるいは建物の床下を利用するなるほど、仮説的なものがほとんどであった。
なかなか面白い。知らずに親子が接触していくという筋立てが先へ先へとページを進めさせた。

キャッチフレーズ
恨みもまた、人の情け。それがしはけだものだ。一子・破天丸を失い、鬼と化した新左衛門尉。油問屋の主人に納まり地歩を固める新九郎。波乱万丈の時代活劇、いよいよ佳境へ!
86 私が嫌いな私 重松清 大田出版 1992.8.15 2003.9.8 1
奇妙な条件だった。「弟さんから聞きませんでした? 昨日、電話で説明したんですけどね」家庭教師派遣会社の女性事務員は、カウンターの前に立つ中川和人をちらりと見てから、生徒のデータを手にとった。「じゃあ、もう一度、ざっと読みますよ。生徒は高木あずささん。この四月に十七歳になったばかり。本来なら高校二年なんだけど、現在長期にわたって病気療養のため休学中。本人と家族は、高校に復学するよりも大学検定の方を目指してるみたいですね。科目は数学と英語を中心に、あと国語の古文のほうも教えてもらいたい、と。そこまではいいですよね」
双子の兄弟が一人の少女の家庭教師になる。少女は自分の差し迫った死を知ってか知らずか二人のうちの長男の方に自分の身代わりを頼む。「自分の悪い子を受け取ってもらうために」・・・と ちょっと変わった筋。1992年というと重松氏のごく初期の作品だろうか
85 落日はぬまたばに燃ゆ 黒岩重吾 1 1999.1.31 2003.9.7 プロローグ
三十分前に電話があって良い筈なのにかかってこない。私は意味もなくシャワーを浴びると、冷蔵庫からビールを取った。十余年前にパリにきた時は、部屋に冷蔵庫などがなかった。ビール一つでもルームサービスに電話をしなければならないのが、めんどうだった。パリも時代の波に乗り新しくなった。ベッドに腰を下ろすと枕に顔を寄せ、さっきまでベッドにいた女の移り香を嗅いだ。体臭よりも香水の匂いがした。大きな溜息をつくと、頭の空洞に漂っている甘い靄を追い払うように、勢い良くビールを飲んだ。この半日近い出来事が信じられないような気がした。やはり夢を見ていたのだ、と自分にいい聞かせた。
黒岩重吾は三作目、前二作は700年代の歴史もであった。今回は現代小説。これが同じ作者と思うほど感じがちがう。この物語はプロパー(薬品の営業マン)の過去を持つ50代の男が主人公である。最初から中盤くらいまでは、なんとも平凡だなーと感じるが後半部はぐいぐいとひきつける。なかなか良い。

主人公 隅、親友=秋岡,南本恵=パリであった日本人,浜田=後半部の重要な役割、
84 白夜を旅する人々 三浦哲郎 新潮社 1984.10.25
1988.7.30 22刷
2003.9.6
馬橇が走りはじめると、空罐に風穴をあけただけの手焙り火鉢から、火の粉が音を立てて舞い上がった。赤犬が馭者の野太い声に驚いて吠えた。狭い谷間に馬の鈴の音が響いて、それで見送りの老婆たちの声が、どれも鈴を振りながら唱える御詠歌のふしにきこえた。助産婦が、走る馬橇から手を振った。「それじゃ、お大事に。なるべく精のつくものを食べさせるのよ。それから、赤ちゃんに風邪をひかせないようにね。」雪明りのなかで腰を屈めている老婆たちはみるみる野仏のようにちいさくなって、助産婦の言葉尻が谺を招んだ。
なんとも、暗い本であった。タイトルと作家に釣られて読んだが・・・。とはいえ最後までぐいぐいとひきつけられて読んでしまった。
6人の兄弟のうち、白子という遺伝子を持つ2人がいたがそのうちの健常者が2人、白子が1人自殺してしまう物語。
この本を読んで"希望"につながるということはない。22刷も出ていることが信じられない。
83 弓削道鏡 上 黒岩重吾 文芸春秋 1992.7.1 2003.9.4 1
神亀三年(726)の旧暦九月の中旬、一人の頑丈な若者が生駒山の南、信貴山と高安山の間の獣道を歩いていた。髪を頭の上で無造作に結び先の方も紐で結んでいる。遠くから見れば黒い頭巾の形をしているが、髪先は後ろにやや垂れていた。身長は約五尺五寸(165センチ)ぐらいだろうが、肩幅が広く胸も厚い。若者は麻布の上衣を腰で締め、筒様の袴をはいていた。皮靴をはき弓を肩にかけ矢筒を背負っている。腰に山刀を吊るしているのは猪や山犬などが襲いかかった時のためだろうか
なかなか面白かった。この時代の出世の糸口はほとんどが僧侶系である。この時代も医者がいたというがそれと同等の地位に看病禅師というものがいてこの主人公は僧侶=この看病禅師となり出世の階段を上り始めているところで終っている。

主な登場人物
円源、円興、安部内親王=、玄眩、良弁、仲麻呂=恵美押勝、真備
82 司馬遼太郎をなぜ読むか 桂英史 新書館 1999.4.5 2003.8.29 司馬遼太郎の「ひとり勝ち」
司馬遼太郎の「ひとり勝ち」がつづいている。司馬遼太郎という作家が七十二歳で亡くなったおおよそ三年前、僕たちはいたる所でその死を惜しむ声を耳にした。それ以降も、司馬に対する、いささか恥ずかしくなるほどの礼賛は現在まで続いている。司馬遼太郎という作家は、数えきれいないほど多くの著作を残し、信じられないほど数多くのペストセラーを世に送りだした。そして、文化勲章も受賞し国民的な作家と呼ばれた。それだけに、追悼を大きなビジネスチャンスとする出版会の反応は早かった。
この本は小説ではなく、司馬遼太郎を語りつつメディアとコミュニーケーションについて書かれた本。筆者の立場は反司馬遼太郎に基づいており、司馬遼太郎について好きでも嫌いでもない立場にいる人が読んでも多分気分悪くなるだろうと思う。
曰く「ただ、ここで述べている「日本は衰弱するのではないか」という意見には、いささか眩暈がするほど、憤りを覚える。」と筆者は述べているが司馬遼太郎が戦後30年も40年も首相をやったわけでなく、一作家によくこれほどのことが言えるのかあきれてものが言えない。]
81 天敵 吉野光 作品社 1997.9.15 2003.8.28 1
美緒はその日、江戸川沿いの小さな町の市で、朱塗りの枕を一つ売った。箱の底がゆったり円弧を描いた、寝返りに具合の良い、艶美な枕である。競り市や露天で仕入れをし、また、売るだけのものを売ったら、乗りなれたバンに荷をつめなおして、次の町へ行くだけだ。二、三日市が続く所でも、終れば長居はしない。愛着がおこる前にその土地を離れるのが、美緒の心がけである。
キャッチフレーズ
不義や不倫の喜びには、浄土を間近に引き寄せる。存在の宿業たる「好色」の謎に迫る瞠目のサスペンス・ポルノグラフィー
先生は間違うておりまへん。・・・悪いことしはっただけのことどす。

サスペンスというのにはちとお粗末。また筋の展開が乏しい割にはごちゃごちゃした難しい説明がおおく、我慢して全編読み終えた。読後感 △
80 下の公園で寝ています 立松和平 東京書籍 2002.12.25 2003.8.27 下の公園で寝ています
通夜の席にね、知らない顔がいっぱいあるんだよ。たこちゃんのことなら、俺、たいていなんでも知ってるって自分では思ってたんだ。ほかの劇団の連中とかがたくさんきてて、聞けば、たこちゃんは稽古場によく遊びにきてたっていうんだなあ。たこ八郎の違う面が見えたな。トバが焼きもち焼くからって、芝居仲間のところに遊びにいってたことをいわないんだなあ。まったく知らない顔もそこにはあったよ。喜劇役者の師匠ユリさんの内弟子をやめてから、宿無しは九年ぐらいやってたんじゃないの。アパート借りても、自分の部屋には帰らないで、人のところばかり泊り歩いてたもの。昼間は公園で寝てるし。二、三日いて、そろそろ嫌われそうになるかなって頃を見はからって、ふらっといなくなっちゃうんだ。惜しまれて去るんだよ。みんなの気持ちが残るから、いつでもまたそこにいけるだろう。
「下の公園で寝ています」の題材は宮沢賢治のゆかりの建物の玄関に「下ノ畑ニ居リマス」から取ったとあった。タコ八郎はよく近くの公園で寝ていたところから取ったとあった。
この本は著者に近い人が亡くなったことに題材をとったもの。人生それぞれの終焉に感慨深い。
本書は短編集。ほかに「目玉」、「沙羅双樹」、「白蟻」、「盂蘭盆」、「悲願」、「最期の声」、「道場」、「遍路道」、「此岸」
79 リビング 重松清 中央公論新社 2000.12.1 2003.8.26 となりの花園 - 春 -
先週の木曜日、園芸業者のトラックが家の前に停まっているのを見かけたときから、嫌な予感がしていた-と妻のひろ子は言う。「荷台にトレリスがあったの。白いやつ。もうね、それで、アウトッ、て感じ」 おおげさな、ちょっと笑えるしかめつら。でも僕は知っている。ひろ子は、本気で落ち込んだり嘆いたり怒ったりしているときにかぎって、わざと芝居がかかった表情やしぐさを見せるタイプだ。「トレリスって、なんだっけ」と僕が訊くと、ひろ子はマガジンラックから雑誌を一冊取り出して、これよこれ、と表紙の写真を指さした。格子模様の、柵というか衝立というかフェンスというか・・・。
重松清もずいぶん読み進んだがいつもと同じで今回も読後感良好。この小説ちょっと変わっている。12の小品が並んでいるが、そのうちの4品は左記の「となりの花園 - 」の続編で夏、秋、冬と続いている。
78 モーツァルト荘 三浦哲郎 新潮社 1987.7.20 2003.8.26 モーツァルト荘のロック
ぼんやり空を眺めていて、星の一つが、ついと流れるのを見かけると、いつもきまって胸底に微かなあせりにも似たものが走る。早く、早くと、せっかちに自分を急き立てるものが。けれども当然のことながら、流れる星は忽ちのうちに燃え尽きて、あとの夜空には、ほんの束の間、長い尾の残像がうっすらみえているだけであった。あせりが消えた胸底には、子供っぽい失望がにじんでくる。それから、またしてもチャンスを逃してしまったという淡い後悔。
三浦哲郎は初めて。ずいぶん読みやすい。ちょうど良い心の温まり。大げさではなくて・・・

キャッチフレーズ
モーツァルト荘にロックが鳴り響き、ラジカセを抱えた若い夫婦が奇妙な忘れ物を残していった。- 四季折々、老若男女の客たちが起こして行く、事件とも言えない小さな波紋の数々。駆け落ちカップルを囲む晩餐会、月夜に前庭で舞う裸婦。クリスマス・イブに化けて出る狐(?)・・・静かな筆で描き上げた感動の連作小説集
77 軍師二人 司馬遼太郎 講談社 1968.12.4
1991.3.27 新装16刷
2003.8.25 雑賀の舟鉄砲
「海が、よう見えまするな」栃村ノ平蔵がいった。市兵衛は返事をしなかった。摂津石山本願寺は、はるか西にちぬの海を見おろす台地のうえにある。寺というより、城といってもいい。四方八丁の城郭のうち、雑賀市兵衛たちがこもるこのやぐらのあたりが、とくに高い。平蔵のいうとおり、ここから見はるかすと、中州の突端の向こうの海面が、その部分だけ、しろがねを鋳流したように奇妙にかがやいてみえた。そのくせ、空には陽がなく、灰色の厚い雲が攝可泉の野をおおっているのである。天正七年の三月のなかばのことであった。
短編集 他に「女は遊べ物語」「?女守り」「雨おんな」「一夜官女」「侍大将の胸毛」「割って、城を」「軍師二人」
本の題名にもなっている「軍師二人」とは真田幸村と後藤又兵衛の話。二人が違う軍策を出したとき中間にたつ大野治長が足して二で割った案を出し結局豊臣方の滅亡になった話である。
76 錬金術師の帽子 三木卓 講談社 2001.6.20 2003.8.23 1
吉江光男がレストラン<K&M>前の木陰にしゃがんで、木の枝で土に馬の絵を描いていると、むこうから瘠せた少女が近づいてきた。少女は、うすもののワンピースの腰上のくびれで、しっかりと金鎖のベルトを締めているので、いたいたしいほどほっそりと見えた。光男はしゃがんだままいった。「おそいんだなあ」 「ふん」少女はすぐ前まできて、上から見下ろしている。光男は立ち上がった。がっしりとした体格だが、背丈は少女とおなじくらいしかない。
凡作。 前作の「裸足と貝殻」は良かったので期待していたのだが

学生時代に学生運動をやり死傷問題から犯罪者となりその後父親の経営した花火工場に入りやがて社長になるが・・・

ズーという少女を思わせぶりに登場させながら全く意味なく最後まで続ける。この辺が歯がゆい
75 模倣犯 下 宮部みゆき 小学館 2001.4.20
2001.5.20 第3刷
2003.8.15 21
十一月四日、月初めのこの日の何時頃に、兄への呼び出し電話がかかってきたのか、正確なところを由美子は知らない。この日は、高井家にとって大変な始まり方をした日だったので、兄の動静の細かいところまで気を配っている余裕がなかったのである。和明と由美子の父、高井伸勝は、無口だし気むずかしいところもあったりして、日頃からけっして満点パパではない人である。それがこの日は、輪をかけて機嫌が悪かった。起き抜けからむっつりした顔をしており、由美子がおはようと声をかけても、返事もしない。商売屋の子は、勉強はできなくても挨拶だけはちゃんとできなくちゃいけないと、子供のころから厳しく躾けられてきた由美子は、父親のこの態度におやと思った。癪に障った。
ネットで調べたら、この本は森田監督の手により映画化されており、そのエンディングが極端に変えられており、多くの人が批判を加えていた。やはり原作を読んでいる限りではよっぽどのない限り原作が良いと思える。

主な登場人物
ピース(網川浩一)、栗橋浩美、高井和明、高井由美子、有馬義男、前畑滋子、塚田真一、樋口めぐみ、水野久美
74 蛇を踏む 川上弘美 文芸春秋 1996.9.1 2003.8.14 蛇を踏む
ミドリ公園に行く途中の藪で、蛇を踏んでしまった。ミドリ公園を突っ切って丘を一つ越え横町を幾つか過ぎたところに私の勤める数珠屋「カナカナ堂」がある。カナカナ堂に勤める以前は女学校で理科の教師をしていた。教師が身につかずに四年で辞めて、それから失業保険で食いつないだ後カナカナ堂に雇われたのである。カナカナ堂では、店番をする。仕入やお寺さんの相手は店主であるコスガさんが行い、数珠づくりはコスガさんの奥さんが行う。雇われた、というほどのはなく、つまりはただの店番である。
第115回(96年上期)芥川賞受賞作品との事で、期待した読んだが、なんともあまあ という感じである。 作者曰く、"うそ話"とあるように蛇が女性になり主人公と会話をしていくと言ってもその会話そのものにも特に意味あるとは思われず、・・・ わからん!!!

著者略歴
1958年東京都に生まれる。お茶の水女子大学理学部生物学科卒業。82年から86年まで、東京の私立女子中・高で理科を教える。94年、「神様」で第一回パスカル短編文学新人賞受賞。95年「婆」で第113回芥川賞候補となり、「蛇を踏む」で115回同賞受賞
73 エイジ 重松清 朝日新聞社 1999.2.1 2003.8.12 十票入った。黒板に「正」の字が二つ、縦に並ぶ。「決まりだな」隣の席からツカちゃんが小声で言った。ガキの頃ブリッジ矯正がうまくいかなかったという乱杭の前歯を覗かせて、にやにや笑う。「そんなことないって」とぼくはしかめつらで返した。まだ開票はつづいている。逆転の可能性がないわけじゃない。「人気者じゃん、エイジ」 「うっさいな」 「あきらめろって、決まりだよ、もうぜったい」 ツカちゃんは腰を浮かせ、「だよな、五位以内に入ってるよな」とつぶやきながら、黒板に記された開票の途中経過を目と指で確認していった。クラスの人数は男女合わせて三十五人。一人につき男女二名ずつの、たしか連記投票っていうんだっけ、その方式でぼくは十票・・・・いま、十一票になった。 中学二年生のエイジという少年を主人公にした物語。社会問題化した中学生に多発した事件を中学生の視点から描いた作品。主人公は品行方正で家庭も円満、といって両親からプレッシャーを受けずごく平凡な中学生。そんな中学生も級友が「通り魔事件の犯人」として捕まえられ徐々に自分の精神が追い詰められていく家庭を描いていく。
72 ふたり道三 一 宮本昌孝 新潮社 2002.12.20 2003.8.11 第一章 赤松囃子
透明な水中の岩の下から、のそりと這い出た大山椒魚が、口ばかり大きい、ぬめっとして平たい頭を、川面へのぞかせた。山間に深く刻み込まれた槙谷川の流れは、両岸の雑木林の中からだしぬけに屹立する岩壁が迫って、蒼天旭日の下でもなお暗い。板状や柱状の規則的な割れ目をもつ岩壁の列なりは、どこか恐ろしげで、神の仕業としか考えられぬ。大山椒魚が、淀みで、太い首をもたげた。がはるか上方のただならぬ気配に驚いたらしく、素早く反転して水中へ戻ってしまう。尾が川面をぴちゃりと叩いて、波紋を拡げる。
「夏雲あがれ」の作者。この本が読みやすかったため選んだ。

コピーキャッチ
「天下を盗る!」伝説の刀鍛冶の末裔として、ある時は対立し、ある時は臣従しつつ、天下を目指してともに進む父と子。互いに親子と知らぬまま、因縁の秘剣「櫂扇」に導かれ、図角を現すふたりだが・・・・。壮大な夢を追った武将を描く、血沸き肉踊る大型時代活劇
71 模倣犯 上 宮部みゆき 小学館 2001.4.20
2001.5.10 第2刷
2003.8.6 1996.9.12
あとあとになってからも、塚田真一は、その日の朝の自分の行動を、隅から隅まできちんと思い出すことができた。そのとき何を考えていたのか、寝起きの気分がどんなだったか、いつもの散歩道で何を見かけたか、誰とすれ違ったか、公園の花壇にどんな花が咲いていたかという些細なことまでも。そういう、すべてを事細かに焼き付けておくという習慣を、ここ一年ほどのあいだに、彼は深く身につけてしまっていた。日々の一瞬一瞬を、写真に撮るようにして記憶しておく。会話の端々までも、風景の一切れさえも逃さず、頭と心のなかに保存しておく、なぜなら、それらはいつ、どこで、誰によって破壊され取り上げられてしまうかわからないほど脆いものだから、しっかりと捕まえておかなければいけないのだ。
異常殺人事件を扱った本。第一部、第二部の構成。第一部は被害者、刑事からの視点。第二部は犯人側からの視点。 この第二部が非常に気持ち悪い。異常心理者の殺人方法を描いていてなんともいえない。犯行は二人であるが、無実のものを巻き添えにして、犯人の一人は真犯人から逃れているところで終わっている。下巻も読みたくなる。
70 眠狂四郎虚無日記 柴田錬三郎 新潮社 1969.11.25
1973.2.25 十刷
2003.8.4 少年必死
空一面を厚くおおうた雲の上に、遠雷があった。この雲は、もう二日間も江戸の空を動かず、時折り、思い出したように、雨をおとしているのであった。蒸した湿気が肌にまとわりつく、いやな宵であった。家路をいそぐあわただしい人影の中を、ゆっくりとした足どりで、駒形堂の前を過ぎた黒の着流し姿が、諏訪町の角の蕎麦屋の前に来た。「二八蕎麦」の行灯に灯が入って居り、そのあかりの中に入った顔は、相変わらず、冷たく暗いものだった。
まあ、荒唐無稽といえばいえる。まったく不死身の男の主人公。家慶(いえよし)が双生児の片割れと入れ返ったとか・・・まあ主人公がどんな危地に陥ったとしても絶対死なないので安心はできるがその危機脱出方法はちと安易過ぎる。
ところで、古い本はほとんど書庫に蔵書されるがこれは作者のコーナーに陳列されていた。
69 すっぽらっぽんのぽん 身延典子 南々社 2000.12.9 2003.8.1 生い立ち
頼梅しは旧姓を飯岡静(または静子)といい、今から二百四十年ほど前の宝暦十年(1760)八月二十九日、大阪立売堀南裏町(大阪市西区)で生まれた。父は飯岡義斎といい、儒医者であった。儒医者というのは町医者の傍ら、当時の学問であった儒教を教え広める人というほどの意味で、広く使われていた。義斎には先妻と三人の子供たちがいたが、いずれも没し、飯岡家に仕えていた柔(さわ)が後妻に入った。柔は三人の女児を生み、長女は夭逝、次女の梅しと三歳年下で、後に梅月と号する三女の直(または直子)だけが成育した。
副題 頼山陽の母・梅し 八十四年の生涯
日本外史を著した頼山陽ものは初めて読む。この日本外史は源流に勤王思想があるため頼山陽は「日本を二度動かした男」として、幕末と太平洋戦争に駆り立てた精神的支柱を果たした本となっているとのこと

すっぽらぽんのぽん とは梅しの父が娘に与えた言葉。「世の中に道より外は何事もすっぽらっぽんのぽんにしておけ」守るべきは守り、それ以外はくよくよと思い悩んだりせず、弾みをつけて乗り切って生きなさい、というほどの意味
68 慶応長崎事件 司馬遼太郎 講談社 1968.11.6
1989.10.20 新装三刷
2003.7.26 慶応長崎事件
星が美しい。長崎風頭山のふもとの唐人寺のかいわいでは、この夜、星を祭る数百の献灯がかがやき、狭い寺町の道は産詣する唐人(しな)の男女や見物の市民の群れでごったがえしていた。慶応三年七月六日の夜である。おりから盂蘭盆会の最中でもあって、南京町からこの山手の寺にかけては灯の群れで満ちていた。土佐藩海援隊士菅野覚兵衛は、この夜、白の筒袖、白のだんぶくろ、それに朱鞘直刀の大小を差し、朴歯の下駄、といった海援隊独特の服装で見物にまじっていて、崇福寺への坂を上っていた。
短編集、左記のほかに「薩摩浄福寺党」、「倉敷の若旦那」、「五条陣屋」、「おお、大砲」、「壬生狂言の夜」、「狂客万助珍談」、「けろりの道頓」
最後のけろりの・・・以外はほぼ江戸末期のごたごたを扱った作品。しかし最後のけろりの道頓は今の大阪にある道頓堀を掘り始めた河内の富豪 道頓の話。今までなんとなく道頓堀の地名を聞いていたが、こんな歴史があったとは・・・
67 ビタミンF 重松清 新潮社 2000.8.20
2000.10.15 第4刷
2003.7.23 ゲンコツ
「仮面ライダー」のイントロが流れると、若い連中は一斉に笑った。ジョッキに残っていたビールを飲み干してソファーから立ち上がり、マイク片手にステージに向かう吉岡の背中に、「主任、がんばってえ!」と女子社員の声が飛ぶ。吉岡は踏ん張ってふらつく体を支え、力みかえったしぐさで右の拳を腰の横に添えた。マイクをつかんだ左手は、最初は右の拳のすぐそば、それからゆっくりと弧を描いて体の左側に移っていく。「ライダー」マイクが声を拾わなくても、口の動きだけでわかる。
短編集。普通書名になっているタイトルは、短編集に載っているが今回はない。左記の他に「はずれくじ」、「パンドラ」、「セッちゃん」、「なぎさホテルにて」、「かさぶたまぶた」、「母帰る」。 いずれも家族のありようで主人公は30代後半のサラリーマンとなっている。「セッちゃん」が切ない。中学生の加奈子はいじめられっこは自分自身なのにセッちゃんという架空の子を作りその子がさもいじめられているように話す。家族に心配をかけないように本人が気をつかう情景が胸を打つ。
66 極悪人 山田風太郎 双葉社 1996.8.25 2003.7.21 我が愛しの妻よ
佐須錠助は、妻の品子がいつ帰ってきたのか知らなかった。三日ほどまえから風邪をひいて熱が出て、うつらうつらと眠っていたのが、しだいに耳もとに秋の夜雨の音がよみがえったかと思うと、じぶんを呼ぶ品子の声をきいたように思った。「お、かえってきたのか」と、彼は眼をうっすらとひらいた。「ご苦労さま、どうだったね?」「旦那さん、奥さんが少し変ですよ」品子の声ではなかった。お手伝いの麻枝の声だった。錠助はあたまをもたげた。部屋の襖をすこしあけて、麻枝がくびをかしげてのぞきこんでいた。
短編集 左記の作品のほかに「この道はいつかきた道」、「極悪人」、「吹雪心中」、「天下分目忍法咄」、「環」、随想として「現代妖怪談」、「変ねエム」、「あげあしとり」
いずれも初出誌時期は、昭和36年から昭和39年、随想の方は昭和39、41、47年toあった。
それにしても随分古いもので42年前となる。がそれほど古めかしい文章ではなかった。もっとも読んでいてそれほど気持ちのよい物ではない。
65 カリナン 春江一也 集英社 2002.6.30 2003.7.21 プロローグ
柏木雪雄は、夢の淵で耳を澄ませていた。たたみかけるバスドラムの連打が、遠く近く耳の底にこだまする。無数の石礫が激しく無秩序に打ちつけられるような無機質な音に変わり、やがて目が覚めた。雷雨だった。稲妻が走る。青白く浮かび上がる壁に穿たれた鉄格子の窓が、ほうけた視線の先に寸分の狂いもなく低位置にある。いつの間にかすっかり住み着いてしまった空間、四畳ほどの独房である。黴臭くこもった空気どころか、房内に作り付けの便器からもれる悪臭さえ気にならなくなっていた。柏木雪雄、いや、受刑囚二百四十七番もまた低位置に横たわっていた。
「プラハの春」、「ベルリンの秋」の著者、春江一也第3作の本書。思わず著者別の陳列棚にあったものを見つけ読みはじめた。
前作ほどの感激はなかったが、それにしても筋は面白い。偶然な積み重ねだがそれほど嫌味にならないのが救い。エンディングがちょっと・・・

キャッチフレーズ
すべてを失った男が彷徨のすえ、熱帯で見出した無垢な愛と自己の再生
64 ポチャポチャの女 永倉万治 実業之日本社 1998.6.25 2003.7.20 海の見える部屋
朝、目が覚めて最初にするのは、窓のカーテンを開けることだ。晴れた日であれば、目の前にキラキラ輝く海が見える。その度に僕は思わず笑ってしまうのだ。昇りはじめた太陽が海を黄金色に染めていく光景は、誰かに見てもらいたいほど美しい。晴れた日の午前中には、海が穏やかに揺れているし、夕方の凪の時間は海面が真っ赤に染まり、そこへ船影がゆっくり通り過ぎるのを眺めているだけで、僕は心身ともに解放されて穏やかな気持ちになっていく。
短編集 先の作品のほかに「手配師」,「プーケット島」、「バイヤコンディオス」、「ポチャポチャの女」、「ガールフレンズ」、「インドへ行きたい」、「ベストフレンズ」
いずれも、中年の男女の恋を扱ったもの。内容は? 。まあ 単なる読み物
63 天の瞳
成長編U
灰谷健次郎 角川書店 2001.2.28 2003.7.18 倫太郎のところへ峰倉肖さんから電話が入った。あんちゃんが入院しているという。「えっ。どういうことォ。」倫太郎は思わず大きな声を出した。確かにあんちゃんは、ここ四、五日、子どもの本専門店「いえでぼうや」にも、道場にも姿を見せていなかった。本の仕入れのことで、東京の出版社回りをしていると倫太郎たちはきかされていたのである。それで峰倉さんに、そういった。「園子さんとあんちゃんは相談をして、そんなふうに口裏を合わせていたらいんだけど・・・」「けど・・・・って、どういう意味?」 この倫太郎を主人公にした物語第6巻目、最初のころの幼年編は面白く読めていたが、だんだん大人に近づくにつれて"善意の押し売り"というか説教臭さが濃くなり読みづらくなっている。
62 孔子 井上靖 新潮社 1988.9.10
1999.8.20 25刷
2003. 第一章
師・孔子がお亡くなりになった時、私も他の門弟衆に倣って、あの都城の北方、泗水のほとりに築かれた子の墓所の付近に庵を造って、そこで心喪(しんそう)三年に服しましたが、そのあと、この山深い里に居を移し、口に糊するだけの暮らしを立てて今日に至っております。早いもので子が御他界あそばれてから、いつか三十三年という歳月が経過しております。その間、世間との交渉はできるだけ避けるように心掛けて参りましたが、それは当然なこと、墓所から遠く離れてこそおれ、一生、命のある限り、ここで亡き師にお仕えしようと思っているからであります。
エンキョウという孔子の弟子から見た"孔子"像という形をとっている。この本に載っている孔子の詞のいくつか
@ 君子、固より窮す。小人、窮すれば、ここに濫る
A 近者説、遠者来(近き者説(よろこ)び、遠き者来る。)
B 帰らんか、帰らんか。我が党の少子、狂簡にして、斐然として章を成すも、これを栽するゆえんを知らず。
C 逝くものは斯くの如きか、昼夜を舎(か)かず
D 美なる哉、水! 洋々乎たり、丘が渡らざるは、これ命ならんか。
61 天狗騒乱 吉村昭 朝日新聞社 1994.5.1 2003.7.18 元治元年(1864)四月十三日朝、下野国都賀軍栃木町(栃木県栃木市)の家並みは霧にかすんでいた。肌寒い朝であった。町の中には、日光例幣使道と呼ばれる幅広い街道が南北に通じていて、中央に清らかな水が流れる用水掘が伸びている。道の両側にはがっしりした構えの商家が軒を並べているが、それは町が日光例幣使道の主要な宿場であるだけでなく、町のかたわらを流れる巴波(うずま)川の舟の発着場でもあるかであった。 時代的には"桜田門外の変"の4年後に起こった水戸尊攘派一派の動乱の物語、後半戦は那須、高崎、飯田を通り京に向かったが鶴賀の手前の新保という地で、庇護を求めるために向かった、"徳川慶喜"が逆に彼らを追討する大将であることがわかり断念。1000人余の一派であったが幕府より首謀者は死罪その家族も死罪との厳しい処置になりこの厳しい処置が幕府の余裕のなさが3年後の幕府の崩壊につながったとも後述で氏は述べている。
60 夏雲あがれ 宮本昌孝 集英社 2002.8.30 2003.7.15 第一章 別れ 一
青々として濁りなき空に、繭形の白雲がいくつも浮かんでいる。野には、初夏の光を浴びて、卯の花の白さが際立つ。往来を、草履をばたばたいわせて小走りにゆく武士も、雲や卯の花に負けず色白であった。やや小太りで、内股ぎみに足を送り出すので、月代も腰の大小も袴もなければ、女と見紛うであろう。
話の筋が面白く。また読みやすい。一気に読んでしまった。その分奥行きがないかな。
主人公 新吾、その友達の仙之助、太郎左、憎めない剣の達人の老人 蜂谷十太夫。白十字組とバン竜公との暗闘を新吾3人組が痛快に躍り出て活躍する。
59 半パン・デイズ 重松清 講談社 1999.11.11 2003.7.15 第一章 スメバミヤコ 1
運動靴をつっかけて庭に出て、空を見上げた。青にうっすらと黄土色の交じった空だった。晴れているのに陽射しが遠い。目を細めると、空のてっぺんにまんまるな太陽が浮かんでいた。太陽のかたちをはっきり見たのは生まれて初めてだった。オーバースローでボールを放るように腕を振った。最初は開いていたてのひらを、腕を振り下ろす寸前に閉じた。なんの感触もない。てのひらを開いても、なにもない。でも、いま、空には砂が舞っているんだという。
キャッチコピー
「少年」ってさ、マジ、カッコよかったんだよね。「ナイフ」「エイジ」に続き、少年の日々を描ききった山本周五郎賞受賞第一作

いまや、「少年」はボロ負けである。少年犯罪だの少年法だの、ろくなことにつかわれない。でも、70年代に小学生だったぼくは「少年」にあこがれていた。「おとな」になるよりも、マンガに出てくるヒーローたちのような「少年」になりたくてたまらなかった。「少年」が元気だった頃を知っている人、負けっぱなしの「少年」をいま背負っているひと・・・・ぼくたちみんなの自伝として「半パン・デイズ」を読んでくれたらうれしい、重松清
58 桜田門外ノ変 吉村昭 新潮社 1990.8.20
1992.7.25 11刷
2003.7.11 安政四年(1857年)正月二日- 前日は、朝から雲一つない晴天で、水戸の城下町には、元日らしいおだやかなにぎわいがひろがっていた。武家の玄関には根切りにした男松女松が左右に立てられ、豪商の家々にも門松がつらなり、正装した男女が連れだって神社に詣でる姿がみられた。 井伊大老暗殺の現場を統率した関鉄之助を主人公として描いた作品。幕末の一断面を垣間見ることができる。この事件からわずか8年後に明治維新を迎える。薩摩、長州により維新はなったが、維新のきっかけはこの水戸藩の尊王攘夷が幕末の体制をひっくり返したとも思われる。
57 センセイの鞄 川上弘美 平凡社 2001.6.25 2003.7.6 月と電池
正式には松本春綱先生であるが、センセイ、とわたしは呼ぶ。「先生」でもなく、「せんせい」でもなく、カタカナで「センセイ」だ。高校で国語を教わった。担任ではなかったし、国語の授業を特に熱心に聞いたこともなかったから、センセイのことはさほど印象には残っていなかった。卒業してからはずいぶん長く会わなかった。数年前に駅の一杯飲み屋で隣り合わせて以来、ちょくちょく往来するようになった。センセイは背筋を反らせ気味にカウンターにすわっていた。
老人と40代直前の女性の恋の物語
エンディングはこうだ。
そんな夜にはセンセイの鞄を開けて、中を覗いてみる。鞄の中には、からっぽの、何もない空間が、広がっている。ただ儚儚(ぼうぼう)とした空間ばかりが、広がっているのである。
妙に乾いた文章が最初続きちょっとした随筆を読むような感じであったが読み終わってみるとやはり小説を読んだ後の独特な空間が頭の中を包み込んだ。
56 酒池肉林 井波律子 講談社 1993.3.20 2003.6.28 まえがき
長い歴史をもつ中国では、ありあまる富、つまり過剰エネルギーを盛大に発散し、想像を絶する贅沢や奢侈にふけった人々の例は、枚挙に暇がない。過剰エネルギーの蕩尽としての贅沢は、功利主義的に見れば、なるほど単なるムダにすぎない。しかし、こうした壮大なムダが、時としてすばらしい文化の花を咲かせることもまた、まぎれもない事実である。
中国3000年の歴史を贅沢に尺度を当てた本、皇帝の贅沢、貴族の贅沢、商人の贅沢と3種類にわけ、また宇宙のブラックホールと見合った贅沢のブラックホールがあるとする。すなわち皇帝の見境もない贅沢はありとあらゆるものを巻き込んで、その皇帝の基盤である体制も飲み込んで消滅させるとある。なかなかの宅建である。
55 読むクスリ26 上前淳一郎 文芸春秋 1996.12.10 2003.6.24 社長のお辞儀
東京の新宿駅西口に、京王百貨店がありますね。朝十時の開店時間に、一階の正面玄関から入ってご覧なさい。胸に「社長」の名札をつけた人が、「おはようございます。いらっしゃいませ」と大きな声で挨拶してくれる。むろん同百貨店の本物の社長、川村六郎さんだ。「九州に、創業者会長が毎朝挨拶に立つ百貨店があると聞いたことがありますが、その方を別にすれば私くらいでしょう」しばらくするとエレベータに乗って、「ご用の階をお申し付けください」とお辞儀する。
金庫は寿命20年・・・金庫には火災にあったときに温度上昇を防ぐため発泡コンクリートがあり、その中に水分を含ませてあり、その水分が上昇するときに熱を奪うようになっているとのこと。したがって、その水蒸気が自然蒸発してしまうため寿命は20年のこと。また新品の金庫でも災に2時間ほどもあたりっぱなしだとやはり水蒸気が蒸発してしまい金庫の要をなくすとのこと。
54 アメリカ彦蔵 吉村昭 読売新聞社 1999.10.7 2003.6.22
彦太郎は浜辺に腰をおろし、膝をかかえて海に眼をむけていた。砂礫のひろがる浜の波打ちぎわには、遠くまで白い色が帯状にのびている。それは、海が荒れるたびに打ちあげられる貝殻であった。空は、初秋の空らしく澄み切っていて、一辺の雲すらうかんでいない。潮の香のする微風が海を渡ってきていた。左方に淡路島が、右方に小豆島がくっきりと見え、白い帆をあげた大型の回船が二艘つらなって西から東へ動き、その後方に小型の船がゆっくりと進んでいる。
江戸から播州に向かう回船の炊(かしき)として13歳で初めて船に乗りその1回目に嵐に巻き込まれ、そのまま太平洋を漂流し、約2ヶ月の後に、アメリカ船オークランド号に救出され、その後アメリカに行き、アメリカ国籍を得て日本に戻った物語、日本の明治維新、米の南北戦争を目撃し、しかも3人の大統領と握手をした男。 アメリカ人の親切な人柄が随所に描かれ、読むと気持ちが良い本であった。ただ中年から晩年はややさびしい一生でちと残念
53 楡家の人々 北杜夫 新潮社 1993.8.20
初収単行本 1964.4
2003.6.19 第一部 第一章
楡病院の裏手にある賄場は昼餉の支度に大童であった。二斗炊きの大釜が四つ並んでいたが、百人に近い家族職員、三百三十人に余る患者たちの食事を用意しなければならなかったからである。竈の日はとうにかきだされ、水をかけられて黒い焼木抗になった薪が、コンクリートの床の上でまだぶすぶすと煙を上げていた。しかし忙しく食器を並べている従業員の誰も薪を始末しようとはしなかった。そんなことにかまっている閑もなかったし、なによりも伊助爺さんの領分だったからだ。彼はもう十五年この病院で飯を炊いていて、おまけにご多分にもれぬ一刻者、ちょっとしたことでも他人に嘴を入れられることは容赦できない臍曲りだったのである。
あまりにも長編、途中はとばしとばしの読書となってしまった。楡病院という精神病院を舞台に、大正七年から太平洋戦争終戦の翌年の昭和21年までの時代背景を扱っている。舞台の主人公は、楡甚一郎という病院創立者であったが、第一部で泣くなり、第二部からは主人公というのがはっきりせず、楡甚一郎の長女 達子の夫 徹吉というところか、次女 聖子 三女 桃子 それぞれの生涯を降りまぜ、またこの徹吉と達子の子供たち 俊一,藍子, 周二と舞台は巡る。
52 朝2時起きでなんでもできる! 枝廣淳子 サンマーク出版 2001.12.1 2003.6.15 はじめに
ある日、下の娘のあかりが保育園から帰ってきて、「○○ちゃんのお母さんは、朝二時に起きないんだって」と不思議そうな顔をしたときに、「うわぁ・・・」と思いました。子供にとっては、わが家のことが「とーぜん」なのですね。「そうだねぇ、ふつうのお母さんは(いや、ふつうの人は、というべきか?)、六時か七時に起きると思うよ。お母さんはたまたま、毎朝二時に起きるけどね」というと、わかったようなわからないような顔をしていました。
著者は、夫のアメリカ転勤を機会に「2年間で英語の同時通訳者になる」という目標を立て、さすがに2年間だけではすぐに同時通訳者にはなれなかったが、数年のうちにその夢をかなえた人。現在は当時通訳者と活躍する一方、環境関係のオーソリティでもあり多方面に活躍している人である。現在は夜8時前後に就寝し、朝2時には起きて仕事(デスクワーク)をこなしているとのことであった。英語の勉強では具体的にいkつものやり方を書いてあり参考にしようと思ったのがいくつかあった。また別に英語の勉強ばかりでなく、バックキャステイングという言葉があり、先に夢(なったらいいな)を描き、そのためにはなにをやるか決めていくのだそうである。
51 読むクスリ27 上前淳一郎 文芸春秋 1997.6.10 2003.6.15 すばらしい職場 毎日がカジュアルデー
石油精製の当年が1996年9月から、東京の本社内では「毎日がカジュアルデー」にした。「フレックスウェア制度」といい、TシャツやGパンでさえなければ、背広にネクタイでなくてもかまわない。週一日だけ、という会社はいくつもあるが、毎日というのはあまり聞かない。どんな様子かと見に行ったら、「いやあ、始めたのが暑い時期でしたので、派手なポロシャツも目立ちましたけど、寒くなってからはほとんど元に戻ってしまいました」
モナリザの模写をルーブル博物館の現物の前で行ったのは、61人しかいなく、日本人で始めて行った人が、斉藤吾朗さんていう画家で1973年のことだそうである。本来(50年間も許可をしていなかったそうである)が斉藤氏の一にも二にもの押しの一手で許可にこぎつけたてんやわんやが書かれている。
50 てるてる坊主の照子さん(下) なかにしれい 新潮社 2002.7.20 2003.6.15 お先真っ暗
若さと本人自身の類いまれなる体力によって、春子はめざましい回復を見せた。四ヶ月入院の予定だったが、二ヵ月半で退院することができた。退院してまず最初にやったのは、梅田リンクに滑りにいくことだった。氷の上に立った春子は、「きゃあ、嬉しいわ。滑りたくて滑りたくてたまらんかったわ」満面の笑みをたたえていたが、一歩足を踏み出した途端、表情が曇った。「足が重うてなんや怖いわ」思うように滑れなかった。それでもこわごわと滑っていると、ぽんと肩をたたくものがある。見ると夏子である。
ここの登場人物の四姉妹は実在の人物で、次女の夏子というのが、歌手のいしだあゆみのことで、長女の春子が、グルノーブルのフィギュア・スケート日本代表の石田治子であり、はっきり書かれていないが、四女の冬子がこの著者なかにしれいの奥さんであるらしい。
上下巻読んだが、大変読みやすく退屈しのぎにはもってこいの著者である。
49 漂流物 車谷長吉 新潮社 1996.12.10 2003.6.15 蟲の息
山の手線有楽町駅のプラットフォームからは丸ノ内の東京都庁舎が見えたが、その都庁舎が新宿西口の淀橋浄水場跡へ移って、建物は取り毀され、広い跡地は囲いをされた中に、地面に青草が生えていた。まわりは空しいビルばかりがひしめく間に、フォームからこの青草を見るのは慰めであった。ある土曜日の午後、築地のお寺でいとなまれた葬儀の帰りに、ふと見た時は、電車が来ても二台三台とやり過ごし、立ち去りがたいものがあった。亡くなったのは、むかし私の女人であるが、この人に嘘をついたまま、併しこの人はそれと気づかぬ風をくずさず、西方浄土へ旅立たれたのであった。
車谷長吉の著書の読書は、これで3冊目である。2冊目の「赤目四十八瀧心中未遂」どうにもこうにもお暗い小説であったが、何かと引かれる文章であった。今回は、短編集.左記の他に、「木枯らし」「物騒」「めっきり」「愚か者」「抜髪」「漂流者」、氏の本は、時にSFまがいの怪奇的場面が出るが、今回も「物騒」という小説が顕著であった。また「愚か者」は母の言葉を借りた自伝ものでちょっと変わった私小説といえようか
48 警察官物語 もりたなるお 新潮社 1985.1.15
1985.6.10 第5刷
2003.6.14 風が冷たい。鼻の頭と耳がひりひり痛む。ブロック塀に囲まれた家の庭に、辛夷の花が咲いている。純白の花は曇り日の花冷えの中で、幽かに震えている風に見えた。寒さは、逆もどりの気候のせいでもあるが、パトロール用の自転車で、向い風を受けているからでもあった。道は片側が住宅で、片側は掘割になっている。空掘には事故防止のため金網の柵が張られていて、その先の田畑や平地林にも、新しい建物が建ちはじめていた。 大学受験を失敗し、父親の警察官のあとを追って警察官になった物語。平易な文章で一気に読めた。が読後感は、読んだ だけという気分である。
47 日本の名随筆13
名曲
遠山一之編 作品社 1992.3.25 2003.6.14 音楽と思い出 高田博厚
少年の頃芸術に魅されて、その世界に生きつづけてから、私ももう四十年を経たが、年をとるにつれて、口惜しまれることが二つある。なぜ人間が芸術を創り、どうして人生に芸術が在るかの意味は、自らがながい修練と辛酸を経てきてようやく分かるのであろうが、その年頃に至りついて、少年時代に学んでおかなかったものが沢山なるのに気づく。その中でとくに二つのことが私を残念がらせる。私にとっては、芸術創作と思索は不可分のものであり、詩と音楽と美術は一つであったが、それだけにピアノをおそわらなかったことと、数学に不勉強だったことを悔む。
24編の随筆集である。大半は難しいもので分かりずらかった。その中で「岩城宏之 森の歌」の随筆は面白かった。山本直純との多分学生時代と思うが、学響を立ち上げて、ショスタコービッチの森の泉を主催した時の話で、直純がその指揮で大変興奮した様子がコミカルに描かれている。
46 古本とジャズ 植草甚一 角川春樹事務所 1997.12.28 2003.6.11 本の話だとすぐ古本屋歩きのことになる
ときどき机のまえで、そのときやっていることを忘れてボンヤリとし、三日間だけ神保町のそばのホテルに泊まりたいな。という気持ちになってくる。こないだも渋谷宮益坂の懇意な古本屋の主人に向かって「神保町の宿屋に三日間泊って毎日ゆっくり古本屋を歩きたいんだけど」といったら、説明ぶそくだったとみえ「それよりタクシーでかよったほうが安あがりじゃないんですか」と返事された。ぼくは経堂に住んでるから神保町までタクシーで行くと千五百円とられる。
作者は1908年〜1982年を生き抜いた人。明治41年から昭和57年といったほうがわかりいいか。独特の文語体で、「・・・なんだなー」とか「・・・したんだ」、「・・・とさあ」なんて言葉があちこちに出てくる。それはともかくジャズという言葉に惹かれたが、本の一部の章しかなくちと残念であった。
45 読むクスリ28 上前淳一郎 文芸春秋 1997.12.10 2003.6.8 我が家の金魚
「我が家のリビングルームの水槽に、二十センチ近い大きな金魚がいるんです」と原子力発電技術機構のプラント機器部主任研究員、小倉信治さん。水槽は食卓わきに置いてあって、いつも家族の目に触れている。中には金魚が六尾に、タナゴ二尾。ひときわ大きな全身オレンジ色の金魚がゆうゆうと泳いでいて、「これが水槽の主みたいになっています。五年近く前には、小学生の娘の小指くらいだったんですがね。しかも、これだけが名前を持っているんです」
ちなみに、左記の金魚の名前は、「東芝」なぜ東芝かというと地域の夏祭りの露天に東芝の社員が開いた露天の金魚すくいのから買ったものだったからだ。この話の落ちは、これ以来その家族は、東芝の電気製品のみを買い続けたといって、下手な宣伝よりこういう地道な活動が商品の売れ行きに実を結ぶとあった。
もうひとつ、ブラボーの話。ブラボーは単数の男性をたたえるエール。女性ではブラバ、それぞれが複数であるなたブラビー、ブラベーとなるとあった。 フーンである。
44 天風の彩王 藤原不比等(下) 黒岩重吾 講談社 1997.10.25 2003.6.8 新都
吉野宮から淨御原宮に戻った女帝は、翌朝小雨の降る中を雷丘に登った。そこからは、九分通り完成している藤原京が一望のもとに眺められた。女帝は飛鳥にいる時は、よく雷丘の高台から造営中の藤原京を眺めた。内裏、大極殿、朝堂院などを含む宮は、大和三山のほぼ中央部にある。三山の霊気を受け活発な生命力を保持する場所であった。労役の民は東の空が白み始める頃には朝餉を終え、仕事にかかる。すでに宮の瓦は葺き終えていた。屋根瓦は寺に使われたが宮では初めてだった。宮を取り囲む土塀にも瓦屋根がついていた。
藤原不比等は藤原鎌足の息子で親子2代に渡って時の執権者(天王)に取り入り、最重要な人物となった。最も不比等は親の描いた筋書き通りではなく、新たな道として道を切り開いたのであった。この藤原氏が鎌倉時代を築く藤原の黄金時代に続いて行くのであろうかつぎはそのあたりを読んでみようと思う。
43 漱石先生お久しぶりです 半藤一利 平凡社 2003.2.21 2003.6.6 「厠とほととぎす」再話
時の首相西園寺公望の文士招待に、漱石が「愚美人草」、執筆中で繁忙ゆえに欠席の旨を葉書に書いて、その端っこに、つぎの俳句を書いてだした、という話は有名であるし、わたくしも何度かそれを痛快に思って書いた。時鳥(ほととぎす)厠半ばに出かねたり いまさら解釈するまでもなかろうが、もう一度、余計なお節介をすれば、「ほととぎすがいい声で鳴いている。でもすぐに出ていって聞くことはできん。なぜならトイレで用を足している途中であるから」という断りの意になろうか。道学者は、高貴の方に「厠半ば」とは礼を失するにほどがある、と息まくかもしらないが、そこがまた、漱石先生の権威、権力嫌いと、反骨・皮肉の証として、多くの人に喜ばれている。
この話の後半は、「ほととぎすを厠で聞くと不幸になる"という俗信が江戸時代からあり、これを漱石が知った上での葉書だというと反骨精神、これに極まりという落ちになっている。
てなことで、この本は題名どおりの漱石研究の一端を話題中心に集めた本で大変わかりやすい。漱石の本をいろいろ知っていれば特に面白いと思うが私の場合はほんの少しでちと残念。
42 天風の彩王 藤原不比等(風) 黒岩重吾 講談社 1997.10.20 2003.5.30 神童
赤いトンボが高床式の屋根を取り巻く柵に止まっていた。数歳の童子がそのトンボを眺めている。童子は筒袖の上着を着、筒様の袴と履もはいていた。農民の子供なら袴などはかない。膝からしたは剥き出しで裸足である。明らかに高貴な身分の童子に違いなかった。そういえば、童子の肌は北国の女人に似て白い。一文字に結んだ唇は淡紅色である。ただ眉は濃く釣り上がり、勝気な性格を示している。当時の倭人にしては鼻筋が通り鼻梁が高い。
黒岩重吾が時代物それも7,800年代の日本の時代を背景にした小説を書いていたのを知って、読んでみた。時代物の面白さは司馬遼太郎で知ったが、最近食傷気味で、こちらを読んでみた。なかなか読みやすく続けて読みたい気持ちにさせる。
41 はるかな本、遠い絵 川本三郎 角川書店 2002.4.30 2003.5.28 文学の「現場」
ミステリ小説の探偵と同じように、文学の研究者も「現場」を歩くことが大事だという。この場合の「現場」とはその作品が最初に活字になってあらわれる「雑誌」や「新聞」に発表され、それがあとで単行本になる。文学作品は書き下ろしを除いて、通常はまず「雑誌」や「新聞」に発表され、それがあとで単行本になる。さらにはそれが死後、全集におさめられる。
なかなか面白かった。
その中の紹介で、井波律子の世界という紹介で中国のことを面白く紹介しているというくだりと、「王様の玩具宝箱」の中で植草甚一の文章は多宝搭のようだと紹介していた。ちなみに多宝格というのは中国ではおもちゃ箱の意味であるとのこと。
両者の者を一度読んでみよう
40 きのうの空 志水達夫 新潮社 2001.4.20 2003.5.24 旅立ち
「あっ、アメリカが見えるでぇ」茂がいきなり大声をあげたため、清司はびっくりして飛び起きた。うつらうつらしかけていたところだったのだ。茂は螳螂みたいに顎を上げ、目を細めて、青霞の流れている水平線に見入っていた。霞の上には夏のような入道雲が立ち上がっている。その雲の一部が切れて、紫色をした山の峯のようなものがのぞいていた。山かもしれないが、そんなはずはなかった。太平洋の真ん中だから陸のあるわけがないのだった。
短編集。左記以外に「短夜」「イーッ!」「家族」「かげろう」「息子」「高い高い」「夜汽車」「男親」「里の秋」
一作目の「旅立ち」は少年が小さな舟でアメリカに出航する物語。とかくと単なる冒険小説のようであるが背景は終戦後の暗い情景を彷彿とさせそんなに読んでいて明るくなるというものではない。他の短編もほぼ同じ色調である。
39 歓喜の歌 山川健一 幻冬舎 2003.3.30 2003.5.21 第一章 出会い
コーラの自動販売機にもたれて、高村康之は足元を見つめた。近くの焼き鳥屋から、煙が流れてくる。腹が減った。だが、もう少しの辛抱のはずだった。酔客が大声で話しながら、目の前を通り過ぎていく。中の一人が、不審者でも見るような一瞥を高村にくれる。たしかに、午後九時に近いこんな時間に、酔ってもいない男が一人で立ち尽くしているのは、奇妙なものだろう。だがこちらも、好きでこんな場所にいるわけではない。係長昇進を目の前にしながら、再び調査部に配属されるなんて思ってもみなかった。調査部、借金取り、一見華やかに見えるクレジットカード会社のどぶさらいだ。
環境ホルモンのせいとは一概に言えないが、極小ペニスを持った主人公が、殺人を犯した女性との愛を描いた作品。現代小説の典型的パターンか。暗い作品で読んだあと、こちらもブルーとなってしまった。
38 人に定めなし 黒岩重吾 角川書店 2003.1.30 2003.5.19 一 奥が深い
私はこれまで数え切れないほど死に直面した。普通なら当然死んでいる筈だが、七十七歳の今日まで、元気で頑張っている。雑誌の小説が月に三本、この随筆を加えると四本の仕事をこなしていることになる。とにかく私を編集者諸氏は「怪物」と呼んでいるが、私は生まれた時から虚弱体質で、今も、身長は百六十センチ程、体重五十キロ前後で、骨細である。怪物とは縁の遠い身体といって良い。これは後で述べるが、二十代後半、全身が麻痺するという奇病にかかり、その後遺症で足が悪い。杖をついて歩かねばならないから、まさに吹けば飛ぶような身体である。ただ、今が元気だからといって、明日がどうなるかは分からない。よく「人事を尽くして天命を待つ」といわれているが至言であろう。
この作家は社会派推理小説家と思っていたが、歴史小説も書いているらしい。一度読んでみよう。それにしてもイントロでも書いてあるがほんの紙一重のところでこの人は助かっている。一番最後のモータボートに乗っていて、貨物船とぶつかり、ボートの半分をもぎ取られたが、その残った船体のぎりぎりのところで助かったとあった。またよく言われる「人生万事塞翁が馬」との章でも三十代の全身麻痺の苦痛がなかったら現在までの作家生活はなかったろうと言っている。やはり苦は楽の種というところか
37 機関車・食堂車・寝台車 阿川弘之編 新潮社 1987.3.20 2003.5.17 新幹線考
こんにち、新幹線を無視して日本の鉄道と鉄路の旅を語ることは不可能であろう。「日本の」と言うより、それは開業以来二十余年間、絶えず世界の話題であった。諸外国の元首、王様お姫様、日本へ来ればほとんどが新幹線の旅を試みているし、わが国の、少しつむじ曲がりの芸術家ジャーナリストでも、あれに未だ乗ったことがないという人はまずあるまい。その意味で、往年の「オリエント急行」と多少似ている。にもかかわらず、こういうアンソロジーを編もうとして探すと、新幹線の旅を扱った詩や随筆は以外に乏しい。私どもが見落としているのかも知れないけれど、網にうまくかかってこない。
短編14集、旅情をそそるのどかな文章かなと思ったが、電車にかかわるものであれば何でもござれで、中野重冶の「汽車の釜焚き」という短編は蒸気機関車の釜に石炭をくべる火夫という労働者の仕事に題材をとったもので、当時の労働の苦しさが伝わってくる。昭和12年6月の発表の作品。
36 ナイルの暗号 吉村作治 青山出版社 1999.10.25 2003.5.14 プロローグ
悠久の歴史を刻み、数々の謎を秘めた、神秘の国-エジプト。そして、5000年以上もの前から、いくつもの王朝の盛衰や、そこに生きた人々の愛と死、野望と挫折、戦いと葛藤など、無数のドラマを見つめながら、悠久たる時の流れの中を、変わらずに滔々と流れ続ける、母なる川ナイル。そうした人間たちの儚い営みに、またひとつ、欲望に身をこがした男たちの新たなドラマが生まれようとしていたー。
エジプト考古学者が殺されて、その友人が解決する物語。あまりにも陳腐、また考古学者を立派な人物に描き、著者と重ね合わせて見せられるようで甚だしく鼻白む。愚作
35 てるてる坊主の照子さん(上) なかにし礼 新潮社 2002.7.20 2003.5.10 私には大晦日にやる儀式がある。みんながテレビの「紅白歌合戦」に夢中になっているすきに、倉庫へ忍び込み、正月のために用意したお節料理をつまみ食いすることである。なぜなら、私は好き嫌いが激しく、明日になると、好物が先に食べられてしまう恐れがあるからだ。私の好物、それは玉子焼きと栗金とん。私は黄色いものが好きらしい。倉庫の板戸をこっそり開け、薄暗がりの中で踏み台を探す。それを天井からぶら下がっている裸電球の下へもって行き、よっこらしょと踏み台に上がり、スイッチをひねる。すると、あるある。いつもの場所にお節料理の重箱が四組、きらきらと厳かに輝いている。踏み台を下りた私は、一番左側の重箱の蓋をおもむろに開ける。 この作者は「長崎ぶらぶら節」を2000.3に読んで以来2作目の読書。戦時中に結婚して4姉妹を生んだ照子さんがテレビの本放送を機会にテレビを客寄せに喫茶店を開き大もうけし、そのお金で長女、次女をスケートを習わせそのてんやわんやを描いたもの。実話をもとにしての小説なのだろうか
34 円空鉈伝(えんくうなたでん) 古田十駕 幻冬社 2003.1.30 2003.5.6
輪中の土手の馬踏にでて川筋から平地へ濁流を見ていた与左衛門は、雨足を吐き出す暗い空を恨めしげに見あげると、「いけんなあ」とつぶやいた。「鐘を鳴らしてちょ」与左衛門が言うと、若い衆が鐘打ち場のほうへ駆けていった。あとにのこった村役たちもいそぎ足で土手を下った。村の鐘がなりだした。八月からひと月近く長雨がつづき、九月に入って数日豪雨になった。これがのちに「やろか水」と大水になった。与左衛門が家にもどると、近所の水屋のない家の者たちが、表口を入ってすぐの土間にあつまっていた。かれらは外からもどってきた与左衛門に頭を下げた。「お世話になりやあすで」
円空の出生から没年までの物語。生涯12万仏を作仏し最後は入定して死んだとあった。作者の本は私にとっては初めてであったが読みやすく、他の本も読んで見たいと思わせるものであった。他の本は、「風譚義経」「雲の涯 甲斐武田二代合戦記」があると著者紹介の欄にあった。
33 読むクスリ 29 上前淳一郎 文芸春秋 1998.6.10 2003.5.5 苦情客は最上の友
夕食用に、とチキンを買ってきた。ところが、焼くのをしくじって、まずくなってしまった。きっと夫も子供たちも、嫌な顔をするだろう。奥さん、そんなときどうします? 「アメリカの食品スーパー『ステュー・レオナード』では、そのキチンの返品を受けつけます」とツタガワ・アンド・アソシエーツ代表取締役の蔦川敬亮さん。まさか奥さんのほうは、調理を失敗したから、とはいわない。「おたくで買ったチキン、古かったわよ」と怖い顔を作ってやって来る。「それでも店の側は、だめ、とはいいません。鄭重に詫びたうえで、新しいチキンをすぐ差し上げるのです。
"仕事人間はボケる"の稿で、働き盛りのビジネスマン、それも真面目な人ほどボケやすいから気をつけろ - というのがあった。有能な人は仕事も生活もパターン化しやすいからです。で次から次へと新しいパターンを考えるのであればいいが、そのワンパターンを使って仕事をバリバリやると脳のある部分だけ使われるので、その他の部分は使われないのでボケるとある。このためには家庭生活を大事にすることとあった。
32 プリズンの満月 吉村昭 新潮社 1995.6.30 2003.5.4 眼を覚まし、身を横たえたままいつものように耳をすました。昨夜のテレビの天気予報では晴のち曇と報じていたが、予報通りらしく軒庇に雨の落ちる音はきこえない。手をのばして枕もとのスタンドをともし、近くに置かれた時計を見ると、針が四時を正しくさしていた。20歳の春に刑務所の刑務官になってから戴冠するまでの40年の間に、起きねばならぬ時刻には必ず眼をさます習性が身についた。当直の夜、獄舎の仮眠所で眠っている時、目覚まし時計をセットしてあるが、勤務交替時刻の少し前には体を起し、時計のセットをはずすのが常であった。退職した後もその習慣は変わらず、現在、起床時刻と定めている四時には自然に眼が開く。 太平洋戦争の日本の戦犯を収容した巣鴨プリズンの物語。同じ日本人戦犯のフイリッピンのモンテルパの収容所の解放に尽力した渡辺はまこの物語もあった。この「モンテルパの夜は更けて」の曲名のタイトルと多分聞けばわかるであろうこの歌が元で、この収容所の解放が早まったとのこと。時のフィリッピンのキリノ大統領という人がこの歌を聞き感激したとのことであった。
もちろん巣鴨プリズンのことで紙面は大多数を閉めている。歴史の側面はいたるところにある。・・・
31 ヒトのオスは飼わないの? 米原万理 講談社 2001.11.30 2003.5.3 犬猫の仲
この稿を書き起こした四年前の1998年1月現在、我が家における哺乳類の頭数九。その内訳はネコ六、ヒト二、イヌ一。この総数、構成とも実に流動的だ。たとえば、七年前の年賀状には、次のように書いた。「仕事で行った御殿場で、拾った子猫二匹の成長過程を見逃すのがもったいなくて、今年は十年ぶりにお正月を自宅で迎えます」 その翌年の年頭あいさつは、こうだった。「一昨年の猫二匹に続いて、昨年は仕事先で出会った野良犬一匹、連れ帰ってしまいました。ますます人生を複雑にしています」
イヌ、ネコ好きの通訳の著者。ネコ、イヌの生態、個性が描かれ興味深い。また思わぬユーモラスなところもあり、ひとり笑いしてしまった。
30 読むクスリ33 上前淳一郎 文芸春秋 2000.6.10 2003.4.30 小さな笛の物語
「2002年に日韓両国で開かれるサッカーのワールドカップ大会では、ウチのホイッスルの音色を日本じゅうの皆さんに聞いてもらいたいと思っています。」と東京・葛飾区にある「野田鶴声社」の代表取締役、野田員弘さん。サッカーの審判が吹くホイッスルでは世界一、といわれるまでになった絶品を手がけて30年余、いかにも頑固一徹な下町の工場主らしい親父さんだ。
意外なルールの中で、婚約指輪の起源が書いてあった。ローマの昔は家の鍵を指に挿しておりイエカギとしてあったのが、婚約指輪の始まりとしていたとのこと。
小判の謎の稿も面白い。小判の最初の頃は慶長小判は純金度86%(残りは銀)であったが、天保小判になるとそれが57%になったとのこと。驚くことは表面は両者はまったく同じ黄金色をしていたとのこと。中だけが金の含有量は違うとのこと。表面の銀だけを特殊な薬品処理で溶かすことによって純金に見せていたとのこと。日本の技術恐るべし
29 海馬(とど) 吉村昭 新潮社 1989.1.10 2003.4.29 闇にひらめく
昌平は、店の椅子に腰をおろしヤスの手入れをつづけていた。ヤスは、むろん魚や蛸などを突くU型の先端をもつ漁具だが、普通のものより二倍以上も長い。一般のヤスでは鰻を採るのに不向きで、工夫し改良したものである。かれは、U型に突き出した尖った鋼の先端を丹念に鑢で研ぎ、オイルを塗った。桂子が洗い場で水の音をさせていたが、食器洗いも終ったらしく物音は絶えていた。昌平は、ヤスと大きな手網(たも)を手に店の外に出ると、道を横切って川岸に舫われた小舟に入れた。空には一面に星が散っていた。店にもどると、桂子が割烹着を風呂敷に包んでいた。電燈の光に、色白の横顔と、耳の付け根から首筋に流れるように染みついた赤い痣が、ほのかに浮き出ている。柱にかかった時計の針が、十一時近くをしめしていた。
吉村昭には珍しく創作小説集。短編七編の小説である。
いずれも動物を扱った小説で、表題の海馬(とど)ほか鰻、闘牛、蛍、鴨、羆、錦鯉である。この動物はあくまでも味付けで主人公はすべて人間の男性、それもほとんどがひそかに女性を思いやるタイプのもので、人間の扱いがワンパターンのような気がする。
28 闇を裂く道(下) 吉村昭 文芸春秋 1987.6.20
1989.6.20 第4刷
2003.4.25
十六名の死者を出した丹名トンネル三島口の崩壊箇所では、多量の土砂が水とともに流出し、この付近は、これ以上トンネルを掘り進める状態ではなかった。土砂を引き締めることが先決で、鉄道省では、検討の結果、コンクリートを注入することに決定した。事故現場の片付けも終わった大正十三年六月から、注入作業がはじめられた。切端に、奥ゆき十メートルほどの孔を十数本、放射状にうがち、この孔の入り口に鉄管を押しこみ、コンクリートを圧搾空気で孔の中に注入した。しかし、湧水が強く噴き出して箇所では、コンクリートがかたまらぬうちに押し出されてしまう。このため、工事は遅々として進まなかったが、技術陣は工夫をこらしてセメント注入をつづけた。
両口から掘り進んだ穴が、連結時の食い違いは水平方向わずか85.4cm、高さが3.6cmとのことであった。これが戦前の昭和8年8月25日のことであった。丹名トンネルを通過する東海道線が走ったのは同年の12月1日であった。本巻はトンネル工事に伴うトンネルの真上の丹名地区各損の水枯れによる紛争を多く裂いている。工事前は水の豊かな田園地帯が工事後は牛を飼い乳業で暮らす地域となるほどの激変であった。最後に東海道新幹線の前進である弾丸列車計画に触れ、昭和16年には新丹名トンネルも掘られていたとは驚きであった。
27 闇を裂く道(上) 吉村昭 文芸春秋 1987.6.20
1989.6.20 第4刷
2003.4.23
大正七年三月上旬- 新聞記者の曽我圭一郎は、小田原駅の前に立っていた。駅の線路には、小田原、熱海間を走る軽便鉄度の小型の蒸気機関車がとまっていて、水の補給をうけている。駅前の茶屋には、饅頭やだんごを食べながら茶を飲んでいる数人の男女が縁台に腰をおろし、機関車に眼をむけたり話しこんだりしていた。曽我は、その日、午前十時すぎに東京駅発の汽車に乗った。二時間二十分ほどで国府津駅につき、下車して駅弁と茶を買い、小田原駅までの電車の中でそれを食べた。かれの行く先は熱海で、東京の霊岸島や国府津から船でゆくこともできるが、旅の目的が、湯治でも物見遊山でもなく、新たに建設される鉄道についての取材であるので、レールの上をたどってゆく必要があった。
東海道線丹那トンネル開通までの歴史小説上巻。奇しくも16人ずつの2回の遭難を生んだトンネル内落盤事故や東京大震災の様子を描いており大変興味深い。
着工は、大正七年三月二十一日、最初の落盤は大正九年四月一日、関東大震災は大正十二年九月一日、そして二回目の落盤は大正十三年二月十日である。今の御殿場線がその昔、東海道線であった様子などが描かれており大変興味深い。
26 白い航跡(下) 吉村昭 講談社 1991.4.1 2003.4.20
十一月五日、汽船は、横浜港に投錨した。兼寛はトランクと洋傘を手に甲板に出て横浜の家並を見つめた。無事に留学を果たして帰国した満足感と同時に、母、長女、養父を失った悲しみが胸に迫った。やがて下船がはじまり、かれは乗客たちと小蒸気船に乗り、波止場に上がった。そこに並んで待っていた人力車に乗って横浜駅へむかった。家並が低く、道は埃っぽい。道を歩いたり大八車をひいたりしている男女の背丈は低く貧弱で、イギリス人の中で生活してきたかれは、文明開化されたとは言え日本はまだ欧米の国々よりはるかにおくれているのを感じた。帰社に乗り、新橋駅についた頃には空が茜色に染まっていた。
脚気はかって死の病であった。この主人公が白米のみ食べるための栄養バランスの欠如により発生するとの説を唱えそれを海軍に実践し証明した。確実に脚気は海軍から無くなったのだが、陸軍は細菌説を採り、その論を取らず特に後の文豪 森鴎外が究極な反対論者であった。このため多大な貢献をしたが、今一歩時の明治政府の受けは良くなかった。このため爵位も男爵どまりであった。
25 夜明けの雷鳴 吉村昭 文芸春秋 2000.1.10 2003.4.15 慶応二年(1868)11月29日、前夜からのきびしい寒気に京の町々はさらされていた。甕の水には氷が張り、道を往き交う人や牛馬の呼気は白い。空は青く澄んでいた。夕刻になると冷たい風が吹きつのって、その冬最もきびしい寒さとなり、夜半には雪が舞った。その日、前水戸藩主徳川斉昭の第十八子昭武十四歳に老中稲葉正邦からの達しがあり、それが京にいる水戸藩士の間に大きな波紋となってひろがった。ペリーの来航以来、武力の近代化をはかる幕府は、軍事力をほこるフランスと強くむすびつき、フランスもそれに積極的にこたえて軍艦、大砲、小銃等の武器の斡旋やフランス軍事顧問団の幕府への派遣を推し進めていた。 No22と同じく幕末から明治にかけての医者もの、主人公は高松凌雲一字目が同じ高の字でちょっと似通っている。官軍 榎本武楊を函館五稜郭の戦いで和議の申し入れの仲介をした話が載っている。また明治時代に貧民でも病院でも見れるように、同愛社の設立発展に尽くした経緯が記載されているが淡々と書いてあるだけで掘り下げが足らずちょっと物足りない。
24 最後の花時計 遠藤周作 文芸春秋 1997.1.20 2003.4.4 医者ゆえの迷信
血圧の高い知人が倒れた。不幸なことに明日、病院に行こうという前日のことだった。彼は現在のところ、全身が不自由で、言葉も言えず、食事も自力ではとることができない。気の毒な限りだ。こういう知人が私にも僅かだが他にもいる。元気な時はダンディだった男が一瞬にして不自由な体となり、言語障碍で苦しんでいる。
短編集
左記の話の続きは、病気にかかるのは医者が「方角が悪い」といったことにある。著者は医者ゆえ医学の限界を知り迷信を言っているが好意的に扱っている。小生もそんなもんだろうと思う。
23 お言葉ですが・・・B 高島俊男 文芸春秋 1999.1.30 2003.4.1 読みやすくこそあらまほしけれ
リンボウ先生こと林望さんがつい先頃までは雑誌「諸君!」に連載していらした「浮世坊談議」、その「三代の御製」にほんとうに目をむいた。[三代」とあるが実際は二代で、明治・大正両天皇のお歌を紹介した物である。その歌がいいのだ。もっともずっと以前に同じように目をむいたことがある。もう四十年ぐらい前かと思うが、昭和天皇が戦後はじめて国技館へ相撲を見にいらした。その時お作りになった歌が新聞に出ていた。 ひさしくも見ざりし相撲ひとびとと手をたたきつつ見るがたのしさ というのである。
「ジュライ、オーガストの不思議」の章で、7月のジュライはジュリアス・シーザーのジュリアスから8月のオーガストはその養子のアウグストゥスが自分の月としてつけたとあった。また2月はどうして日日が少ないのかということに関しては、三月が暦のはじめで、この月から31,30と順繰りにして、多すぎる2月の日を減らしたとあった。またそれなら7月と8月はなぜ31日が続いたかということに関しては、アウグストゥスが自分の月が30日と少ないので2月から1日持ってきて31日とした。とのこと。世の中にはいろんな曰くがあるのだ。
22 白い航跡(上) 吉村昭 講談社 1991.4.1 2003.3.27
慶応四年(1868)一月三日、薩摩、長州、土佐、芸州各藩の討幕軍砲撃によって戦端が開かれた、鳥羽、伏見の戦いは、戊辰戦役として全面戦争に拡大した。鳥羽、伏見の戦いは、淀藩についで津藩が討幕軍側についたことから、幕府軍は総くずれとなって敗走した。大阪城にあった将軍慶喜は城を脱出し、海路、江戸に落ちのびた。朝廷は、慶喜追討令を発して新政府樹立を宣言し、有栖川宮タル人親王を東征大総督に任じ、新政府軍は江戸に向かって進撃を開始した。総数約五万で、主力は薩摩、長州それに土佐藩の兵であった。
やはり偉人物はいい。読んでいて心が弾む。しかしこの主人公 高木兼寛は寡聞にして聞かない。医学関係の大家であるようだ。英国に留学に行きそれに互して主席を取るなどと言う驚くべき才能を示している。下巻が楽しみだ。
21 読んでもたかだか五万冊 安原顕 清流出版 2002.12.26 2003.3.24 飯島耕一「暗殺百美人」
手法・内容ともに斬新な前衛小説
言うまでもないことだが、小説には定義も法則もない。精神の自由な運動、沸きいずるイマジネーションを自在に紡ぎ出し続けているうち、いつの間にか「小説」の体を成している。まあ理想を言えば、こんな感じで仕上がったものが、ひょっとすると傑作と呼ばれる小説なのかもしれない。むろん、これとはまったく逆の方法、つまり初めからきちんと構想があり、計算され尽くされた上で書かれた小説もある。いずれにしても、言うは易いが、これを成し遂げるのは至難の業ということになる。
著者 安原顕氏は今年の2月に亡くなった方。私がよく聞くMusic BirdのJAZZ番組のゲストであった。2,3年前に肺ガンを告知されたが、まったく治療、診察をせず去年の11月に体調不良により診察を受けに入ったら「余命、1,2ヶ月」を宣告され、そのまま周囲に告知し仕事を続行したつわもの。なお、このガンにかかる前に放送で「自分がガンにかかったらじたばたしないで寿命を真っ当する。]といってたと追悼番組で話していたとのこと。
20 読むクスリ31 上前淳一郎 文芸春秋 1999.6.10 2003.3.18 先生を助けた話
かって明智光秀の居城があった亀岡市は、いまは京都のベッドタウン。盆地の真ん中を、水のきれいな保津川が流れている。「私は小学校から高校にかけての少年時代を、この亀岡で送りました」と山陽特殊鋼の常勤監査役、近藤榮一さん。小学校四年生のとき戦争が終ると全国どこの男の子もそうだったように、野球に熱中した。
一番、心に残ったのは、餅がのどにつかえた老人を救う「もち詰まりにネギ」気管にもちがつまるわけだが、その奥に食道があるとのこと、であるから適度な硬さのネギで押し込むと良いとのことであった。それにしても気管の位置と食道の位置関係をいままで考えたこともなかったなー
19 お言葉ですが・・・ 高島俊男 文芸春秋 1996.10.15 2003.3.14 ミズもしたたる美女四人
一月の大半をすごす琵琶湖畔の勉強部屋では、我輩地元の新聞を読む。といっても滋賀県だけの新聞はないので、「京都新聞 滋賀」という新聞である。この新聞の「県民版」には、ときどきおもしろい記事がありますよ。先日は、「ミズ」4人決まる という見出しの記事があった。「なんじゃい、これは」と記事を読むと、びわ湖大津の観光親善使節「ミズ大津」の選考会(大津市観光協会主催)が三十日、大津プリンスホテルで開かれ、五十九人の応募者の中から四人のミズが選ばれた。
"「しな」学入門"の章がおもしろかった。しなと読まれる漢字、品、科、階 はすべて階段状の地形→等級→区分を表すとのこと。長野県の信濃はもともとはここは階段状の土地が多くもともとは科野とのこと。というと、東京の品川もこの伝であろうか
18 リフォームのコツ 日向野利治 すばる舎 1997.11.19 2003.3.11 5年たったら住まいのチェックをする
一戸建てもマンションも、築3年目から5年目にリフォームをすることが、家の耐用年数や家族のさまざまな要求を満たす意味でもポイントになる。特に一戸建てでは、この時期に外壁の保全をしないと、後で多額な費用がかかったり、最も大切な構造体が短命になりかねない。
表紙のサブタイトルに"厳選45実例&見積もり付き"とあるが、確かに価格の実例は載っているが、一番基本的などの程度の量か見えてこず実際の業者と交渉するときに有効な材料とならない。まだリフォームはいいとしても増築例でも何坪増築するからこの価格だの表示もない。 ダメな本
17 オーディオ道入門 青弓社編集部編 青弓社 2001.2.10 2003.3.10 いい音とは何か? 嶋護
- "I want majic! Yes,yes, majic!" Tennessi Wilams
- "I want music! Yes,yes, music!" Mori Shima
スティーブンスのステレオ・セット
アメリカ合衆国大統領が、軍人の英雄から若く魅力的なアイリッシュへと替わった時代。あるところにごく普通の家庭がありました。彼の名はスティーブンス。郊外の我が家から都市の広告会社へと通っています。上司のラリーはとてもお調子者です。スティーブンスには奥さんと幼い娘がいて、やがて男の子も生まれるでしょう。
大体、タイトルから、"・・・道"とかいっているのが気に入らなかったが読んでみた。導入部もいい音とは何かといいながらオーディオのごく初期の話を脈絡をかまわず大変読みがたかった。これからオーディオに入ろうとしている人に読ませる本ではない。へたくそ・・・・
16 ゴムの惑星 赤瀬川源平 誠文堂新光舎 1995.3.30 2003.3.6 シャイ転換の問題点とは
ゴムの惑星というのは、ぼくたちロイヤル天文同好会の機関紙の名前だ。ぼくがむかし美学校というところの先生をしていて、そこの生徒たちといっしょに作った。生徒たちといっても勤め人とか大学生で、みんな遅れてきた天文少年で、まじめに天文をやるには照れがある。それに毎日観測する勤勉さも身についていない。でも天文への憧れはある。そんなこんなでこういう名前になったのだと思う。
著者は、天文愛好家というよりカメラ愛好家の部類で、カメラの話がかなり出てくる。この辺はオーディオの話と一脈通じておりオーディオとは本来音楽を聴く為にあるのだが、鳴らす装置そのものに興味を深く持ってしまうのだが・・・・この著者も同じである。
ステレオ写真というものが結構迫力があるとか一度覗いてみよう。
15 私本太平記 第1巻 吉川栄治 六興出版 1990.6.25 2003.3.4 下天地蔵
まだ除夜の鐘には、すこし間がある。とまれ、今年も大晦日まで無事に暮れた。だが、あしたからの来る年は。洛中の耳も、大極殿のたたずまいも、やがての鐘を、偉大な予言者の声にでも触れるように、霜白々と、待ち冴えている。洛内四十八ヶ所の篝屋の火も、つねにより明明と辻を照らし、淡い夜靄をこめた巽の空には、羅生門の甍が、夢のように浮いて見えた。そこの楼上などに、いつも絶えない浮浪者の群れが、明日の元旦を待つでもなく、飢えおののいていたかもしれないが、しかし、とにかく泰平の恩沢ともいえる事には、そこらの篝番の小屋にも、町なかの灯にも、総じて、酒の香がただよっていた。
太平記とは、南北朝時代を描いたものであるがそれを吉川栄治が最晩年に描いた作品で遺作となった。
太平記は,1370年ごろ成立したものとされ、作者は不詳、僧の説教のあとの余興として話され、講釈師により伝えられたものとされている。
この私本太平記は全8巻、読みきれるか。宮本武蔵も読んでみたいものであるが、
14 法師蝉 吉村昭 新潮社 1993.7.10 2003.2.28 海猫
突堤と言っても、海岸ぞいの道路から突き出た小型漁船の舫い場で、道をへだてて二階建ての国民宿舎が建っている。近くに村営の観光船発着所があり、十分ほど前に観光バスから降りた人たちを乗せた船が、とびかう海猫の群れにかこまれながら出ていった。船は、切り立った断崖や奇岩のつらなるリアス式海岸をめぐって、一時間ほどでもどってくる。塩崎は、突堤の端に腰をおろして釣糸をたれていた。五年前の夏に初めてこの村に来た時、その場所で三十尾近い鯖を釣りあげ、泊まっていた和風旅館に持ち帰って女主人に渡した。鯖は、東京の魚屋やスーパーマーケットなどでみるのとはちがった身の細い小型のものであったが、女主人は、かすかに頬をゆるませながらも四、五尾焼いて、夕食の膳にのせてくれた。むろん脂はのっておらず、村では食べる者もいないのだろうが、淡白な味がしてほとんど残さず口にした。
短編小説、9編、書名およびイントロで紹介した2編を除くと、他は[チロリアンハット」、「手鏡」、「幻」、「或る町の出来事」、「秋の旅」、「果実の女」、「銀狐」である。定年退職した悠々自適な生活ながら妻に顧られず、またはすることもなくというのが多かった。わびしさだけが残る一冊

13 いかさまトランプ師の冒険 ジャン・ジオノ
酒井由紀代訳
河出書房新社 1997.1.24 2003.2.22 朝早く。私は道路端に座って、牛の乳を集めるトラックを待つ。トラックが近づく。立ち上がって合図をする。しかし男は私を見もしないで行ってしまう。パイプにタバコを詰める。もう何週間も前から、秋が旅の道連れだ。りんご園が真っ赤に染まっている。しばらくするとまた、エンジンの音が聞こえる。今度はトレーラーをつけたタンクローリーだ。その男が私を拾ってくれる。男はひとりだ。彼は自分の青ラベルたばこを脇にやって、紙巻きたばこをくれという。私は彼にたばこを巻いてやる。巻き終わりに紙を舐めていいかと聞くと、[舐めてくれ」と言う。彼は私にどこから来たのかを聞かない。いい徴候だ。どこに行くのかと聞く。私は、まだあまり決めていないのだと答える。 著者はブランス人。これがフランス文学というのであれば、なかなか難しい。筋はともかくとして何を言いたいのかわからない。

著者略歴
ジャン・ジオノ Jean Giono 1895年、南フランス、プロヴァンス地方のマスクに生まれ、生涯をその地で過ごす。靴職人の父の影響を受けながら育つが、貧しさのために学業を中断し16歳で銀行に勤める。1929年、「丘」を始めとする牧歌的田園生活を描く誌的イメージ豊かな小説三部作を発表して文壇に新風を吹き込み、作家活動に入る。第二次大戦後、作風が一変し、詐欺師や放浪者などの風変わりで孤高な人物をめぐる年代記>という物語群や「屋根の上の軽騎兵」・・・
12 オホーツク街道
街道をゆく38
司馬遼太郎 朝日新聞社 1993.8.1
1993.9.30 第3刷
2003.2.19 縄文の世
いま脳裏に日本列島の浜辺を思い浮かべている。冬、流氷のくるオホーツク海岸もあれば、春から夏にかけて黄沙がやってくる東シナ海の浜辺もある。まことに北から南へながながと島々が連なっている。住民はアジア人である。ただこの島の歴史は、十二世紀末の鎌倉幕府このかた、他のアジアとは一味違う発展をしてきた。六百七十余年におよぶ封建制の経験をもつことが、他のアジアと少し違っている。六百七十余年の封建制の経験が、自分の所属する小さな団体に忠誠心をtくすという文化を生んだ。
縄文時代および古い時代の遺跡がオホーツク海岸沿いに数多くあることをこの小説で初めて知った。またアイヌ人以外のウイルタ、ギリヤーク、サンダー、ヤークト人などの人種が住んでいたことも・・・
土器が偉大な文明材だったとあり、第二の胃袋として機能し、人間の食材を大きく広げた功績を挙げている。知らんぬんかな
11 読むクスリ34
社長を変える魔法
上前淳一郎 文芸春秋 2000.12.10 2003.2.13 ネーミング物語
ネーミングライター、という新しい仕事が生まれている。企業が開発した商品に、消費者うけしそうな名前を考える。ある会社が、女性のおなかがスマートになるコルセットを売り出した。要するに贅肉を、ぎゅっ、と締め付けて、おなかを細く見せる腰巻だ。初め「シェイプアップベルト」の商品名で発売したが、年間一千万円くらいしか売れず、元も取れない。相談された若い女性のネーミングライターが付けた名前が「肉取物語」。竹取物語をもじった面白ネーミングだけれど、とたんに年間売り上げが一億円にはねあがった。ネーミングライター嬢は百万円もらったそうだ。
今回面白かったのは、そうめん、冷麦、もう一つスパゲッテイの違い。材料はいずれも小麦粉だが製法の違いで前者から 伸ばし、押し切り、押し出し による違いがあるとのことであった。もちろん他にもあるが省略。
あとは、世界ご当地ソング という項でそれぞれの国の名曲をそれぞれのゆかりの地でその国の言語で歌うのが趣味だという人の話。最初は日本であったが世界に飛躍したらしい。すごいものだ
10 すべての一歩は掃除から 山本健治 日本実業出版社 1998.9.30 2003.2.5 ウンコすらうまくできなくなった日本人
日常生活の「心・技・体」
まえがきに続いて、なお尾篭な話をすることを、お許しいただきたい。"大の大人"がウンコすらうまくできなくなった理由は、スポーツの世界などで言う「心・技・体」が崩れてしまっている結果ではないだろうか。第一の「心」の荒廃ぶりについては、昨今の日本で生じているさまざまな出来事を考えると、残念だけれども誰もが肯かざるをえないだろう。
ウーン 5S の本だ。 もう少し面白い話があるかと思ったが、お説教臭さが匂って走り読みになってしまった。それとこの種の本にある話の展開が強引・・・

感心したのは、掃除をやるときは、「アイウエオ」でやることだ。とあったが私はどうせやるなら「アイウエオ」で考えたい。アかるく、イききと、ウれしそうに、エがおで、オもしろく と
9 読むクスリ36
妻が横に立っている
上前淳一郎 文芸春秋 2001.12.10 2003.2.4 竜巻社長は吼える
「私はアメリカで通算16年間、現地従業員を怒鳴りっぱなしでした」と川崎重工業代表取締役で、常務取締役、車両カンパニー・プレジデントの佐伯武彦さん。「最初にアメリカへ言ったのは1981(昭和56)年でしたが、初日から遅刻してきた従業員を怒鳴りつけました」 ネブラスカ州にある現地法人のオートバイ工場へ取締役として行き、すぐ社長になった。この工場は7年続きの赤字で、「じつは、工場を閉鎖してこい、という命令を受けていったんです」
イントロで書いた怒ることを自慢にしているような話はあまり聴きたくないが、今回もアイデア商品類の話は面白かった。
表裏がある網戸 / インテリア網戸 / 傘を売るバス / 海苔と竹皮の関係 / ほっぺ枕
灯。 ところで副題の「妻が横に立っている」は妻が横に立っているつもりで一層懸命やりなさいとのこと・・・
8 龍を見た男 藤沢周平 新潮社 1983.8.10
1991.9.10 改訂新版
2003.1.31 帰ってきた女
小間物問屋今田屋を出たとき、藤次郎の胸は満足感で膨らんでいた。いそぎ足に広小路を横切って、両国橋に向かった。日は西に傾いているが、まだ沈むには間がある。一日、雲ひとつない秋空を渡った日が、あたたかく藤次郎の背にさしかける。今田屋との取引はうまく決まり、家にいそぎの仕事が待っているわけでもなかった。のんびりと帰ればいいのだが、ひとりでに足がはずむ。
映画「たそがれ清兵衛」がHitしているということで、原作者の藤沢周平の本を読んでみた。可もなく不可もなくというところか、ただ読み耽って朝の通勤時、渋谷を通り越し表参道まで行ってしまった。
短編集9編、書名およびイントロのタイトルをはずすと、「おつぎ」、「逃走」、「弾む声」、「女下駄」、「遠い別れ」、「失踪」、「切腹」・・・・ 最後の「切腹」の短編は男の奇妙な友情を描いたもので、これも映画になりそうな気がした。
7 漢字のいい話 阿辻哲次 大修館書店 2001.10.8 2003.1.30 虫歯の漢字学
パソコンやワープロが普及するにつれて、日常的な文書の中に使われる漢字が多くなったとよく言われる。戦後に定められた当用漢字や、その改訂版である常用漢字の三倍以上にあたる約6500種もの漢字が、コンピュータを内蔵した小さな機会で、いとも簡単に書けるのだから、これから日本人が書く文章の中に漢字が増えていくのは自然の趨勢だろう。しかし新聞ではいまだに常用漢字の「呪縛」から逃れないようだ。先日(1994.2.19)の朝日新聞の「天声人語」「でも、新聞では今も常用漢字外の漢字にルビをつけることになっていて、「鍋」も「釜」も「箸」もルビなしでは書けないと嘆いていた。
書名は「漢字のいい話」であったが、最初の20ページはそんな感じであったが、そのあとはどう見ても筆者の専攻の漢字学の宣伝のようであった。それはともかく「道」が何故出来たのかの話が面白かった。曰く、中国の昔、昔、部族間で相手の部族を訪れるときは全くの原野を探りながら行くので、魔よけとして、人間の生首を持ちながら行ったとの事で、道は首にシンニュウを使うとあった。何故、シンニュウを使うかは書いてなく残念であった。
6 87分署シリーズ
悪戯
エド・マkベイン 早川書房 1996.131 2003.1.27 腕時計の蛍光文字盤が朝の2時10分過ぎを示していた。雨は真夜中ごろに小降りになっていた。雨がまだ降っていたら、彼は出かけてこなかったろう。この手の作家たちは、雨のなかでは仕事はしない。スプレー缶をびしょ濡れにしたくないのだ。作家にもいろいろある。作家というより物書き屋(スクリプラー)といったほうがいい。それぞれが、前に書いたやつの上に書きなぐるのだ。書きなぐり、書きなぐりつづけて、残っていたきれいな白壁も、読めもしない言葉や名前のもつれた有刺鉄線に埋まってしまう。 いやー 難しい。どれが本筋かどれがつけたしかようわからん。デフマンという人物が悪役で最後に完全に死んだはずが遺体が消えているっていうし・・・、結局いま整理してみると、老人遺棄事件と落書き殺人事件とこのデフマンの3事件が並行して走っていると考えればまとまる。
5 駅長の帽子 壇上莞爾 心交社 2001.7.1 2003.1.22 161万1000人、平成3年度、新宿駅の一日平均の乗降人員である。正確にいえばこれは改札口を通る人数であって、電車から電車へ乗り換えるホームづたいの数は含まれていない。それらの客を加えれば約189万人が利用していると推定される。もちろん、日本一である。いや世界一といっていい。平成4年3月1日現在の東京都民の総人口1187万43人と比較しても、いかに多いかということがうなずける。 副題が「鉄道人生 24人の人生」とあるように日本全国に散らばる各駅長の人となりと鉄道人生のエピソードをつづったもの。早い人は平成4年ごろ、遅い人は平成10年ごろまで取材したものに基づいている。あとがきにそれぞれの現在の状況を自著しておりその後の人生も興味深かったが、自慢まじりの記述は見苦しく感じた。
4 紅茶を注文する方法 土屋賢二 文芸春秋 2002.4.15 2003.1.17 まえがき
誤解のないようにいっておくが、本書はノーベル文学賞受賞記念講演集ではない。哲学書でも医学書でも冷蔵庫でも地下鉄でもない。とくに遺稿集ではない。週刊文春に連載したエッセイをまとめたものである。満を持して出す本である(これまで、わたしは本を出すたびに満を持してきた)。容易に想像できる通り、毎週毎週、質の高い文章を書き続けることはきわめて困難である。どれほど困難なことであるかは、本書の文章を読めばすぐに分かっていただけるであろう。
週刊文春の2000,9.28〜2001.11.15までに掲載されたユーモアエッセイ集。著者は御茶ノ水女子大の哲学科の教授、軽妙洒脱(ちょっと行き過ぎのきらいもあるが)なタッチはとても哲学科の教授の出来とは思えない。
3 みんな野球が好きだった 神吉拓郎 PHP研究所 1994.2.18 2003.1.15 庭のなでしこ
このところ数年、あちこち具合が悪くなって、入退院を繰返していた。その病院へ、橘君が見舞いに来てくれた。なんと50年ぶり、小学校以来だが、子供の頃の面影はちゃんと残っていて、一目でわかった。「変っていないね」と、彼の方でも、そういう。橘 宗樹君とは、東京府東京氏麻布区本村尋常小学校、昭和十五年度、第三十九回卒業の男子二組の同級である。卒業まで六年間ずっと一緒であった。
随筆集
タイトルの野球が好きだったの項は、この本の後半に出てくる。長島がデビューして4三振を食らった帰り道に、永六輔、前田武彦他で自分たちの野球チームを作ったとありこの時代の野球すきがしのばれる。
2 秘伝・部下と子供の叱り方
読むクスリ35
上前淳一郎 文芸春秋 2001.6.15 2003.1.13 秘伝・部下と子供の叱り方
「部下や子供を叱るときには、叱り方があります。それを間違えると、かえって逆効果になってしまいます」とオリンパス光学の技術研修センター部長、西澤昭さん。 中国・明代に呂坤(りょこん)(1536〜1618)という官僚家で警世家がいた。「その『呻吟語』という著書の中に、叱る側が犯してはならない六戒が出てきますので、紹介してみましょう」 一.其の忌むる所を指摘することなかれ。「本人が嫌がることを、ぐさりと、言ってはなりません」プライドを傷つけるような、あるいは能力や努力を否定するような言い方をしないこと。だれにも誇りがあるし、自分の力を否定されたいとは思っていないからだ。
戒めの続き
二.尽く其の失う所を数うることなかれ。三.人に対することなかれ。四.ショウチョクすることなかれ(ショウチョクとは厳しいこと) 五.長く言うことなかれ 六.累ねて言うことなかれ
1 翔ぶが如く 司馬遼太郎 文芸春秋 1975.12.30
1976.1.20 第4刷
2003.1.11 パリで
この男は、薩摩の田舎では、「生之進」とよばれていたが、パリでは、としながとローマ字で書いている。川路利良である。日本人としては背が高く、しかも頚がながいために、その上に載った頭が少し安定感を欠くきらいがあった。色白で可愛気のある丸顔だったため、最初パリでときどき子供にまちがわれた。このため口ひげをはやした。生来ひげの薄いたちであるため、毛が唇のはしに集まって、それが夕方になると脂染みてくるのでひげのさきが垂れた。「おまえはシナ人か」と、女を買うときなどはよくきかれた。かとおもえばスペイン人かと問われることもあり、そういえば当事パリで興行して人気を得たスペインの闘牛士の某と川路の顔だちが似ているという気味はあった。
この本の主人公はいまいちはっきりしない、しいて言えば西郷隆盛か。この本では主人公をおいて書くというスタイルではなく、明治政府が出来たばかりの日本の動向というものを書きたくて、主人公が次々に変って行くのだろうか。

それにしても明治政府の曙のころの偉人の姿は良くわかるようになる。